1946年 ミュンヘン

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 今日のサラはやけに不機嫌で、ベッド脇の折りたたみ椅子に腰かけるなりニコへの不満をぶちまけた。 「ニコに中央駅まで車の手配をしてくれって頼まれたの。でもそこから先は心配しないでくれ、ですって。放っておけと言わんばかりよ、あの子」  屈託なく感情をあらわにし、大きな声で喋り怒り笑う彼女の立ち振る舞いはこの国の人々と比べれば異質としか言いようがなく、十数年の月日が「ドイツ人化したユダヤ人」を「アメリカ人化したユダヤ人」に変えるには十分であることを知らしめる。 「難民の定住先について話が進んでいないのは認めるけれど、多少時間はかかるとしても、合衆国に行くとか……英国さえどうにかなればパレスチナに行く道だって開けると思うの。それまでの間はどこかで職業訓練を受けるって方法もあるわ。その方が絶対に確実で安全なのに、いくら話しても聞いてくれやしない。ニコって見た目と違って頑固でせっかちよね」  苛立ちのままにサラはハンドバッグからタバコを取り出すが、ここが肺病患者の多い病院であることを思い出してか、すぐにしまって行き場を失った指先でバッグの金具を弄ぶ。 「それにしてもウィーンだなんて、どうして。あなたたち、出身は確か……」 「ハンブルクだよ。まあ俺は記憶がこんなだから、ニコに聞いた話だけどね」  ドイツ北部、大きな河と湖のある故郷の港町についても今のレオは教科書レベルの知識しか持ち合わせてはいない。記憶はまだらで、失われているのは生まれや育ち、これまでの人間関係や経験についての何もかも。その一方で、社会常識や生活習慣に関してはほぼ問題ない。両者はそれぞれ脳の別の部分が司っているのだと医者は言っていた。  例えば故郷での生活や両親、初恋について一切思い出せない一方で、世界地図を見ればそれぞれの土地がどういった場所であるのかある程度は理解できるし、もちろん歯磨きのやり方や髭の剃り方については迷うことすらなかった。基本的な生活に困ることはない一方で、生きるための行為だけを叩き込まれた自分はまるで機械のようだと思うこともある。
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