ベランダから覗き見

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ベランダから覗き見

「っあ〜……しんどい」 ベランダの塀にもたれ掛かった女が、眉間に深い皺を刻んで呟く。 腕を外側へ放り出すようにして、見慣れた街並みを見つめる女はその手に持っていた煙草の箱を揺らす。 中から取り出した煙草を咥えれば、背後からスルリとライターが現れる。 「ん」咥えた煙草を突き出し、ライターから出された炎を移す。 それから、吸い込んだ煙を吐き出し、振り返る。 「起きてたんだ」 「起きてたんだよ」 サンダルを引っ掛けてベランダにやって来たのは、女と同じ家に住んでいる男で、軽く肩を竦めてライターを振って見せた。 起きていた、という言葉通りに目の下にはうっすらと隈が浮かんでいる。 男はベランダと部屋を繋ぐサッシに腰を下ろす。 傍らに置いてあった無地のマグカップを引き寄せれば、黒々とした珈琲がなみなみ注がれており、細く白い湯気を立ち上らせている。 口を窄めてそれを啜る男に、女は眉を顰め、煙と共に言葉を吐く。 「それ、私が淹れたやつ」 「俺、紅茶のが好きなんだけどさぁ」 「自分で淹れろよ〜……」 気怠そうな女は、言いながらも脱力した様子で背中を塀に押し付けるようにしてもたれ直す。 「大体、この前個展が終わったばっかじゃん。何で起きてんの」と続けながら。 「ほら、お互い、一度始めると終わりが見えないわけで」 「生憎、私はまだ仕事中なので」 ぽわ、と輪っかになった煙が女の口から溢れ出る。 煙草を持つ手はインクで汚れており、指先には存在感のあるペンだこが出来ていた。 男もまた、マグカップを持つ手が色とりどりの絵の具で汚れている。 互いに寝不足気味の頭で、同じように気怠げな息を吐く。 しかし、女は男からベランダから見える外へと視線を投げると「ん」と何かに気を取られたような声を上げる。 男も視線を上げ「何?」反応した。 女は答えずに体を反転させると、つま先立ちになりどこかを見つめる。 「朝早くに、うら若き男女」 「俺らのこと?」 「良く見なよ」 塀に腕を絡めた女が呟けば、男が腰を上げて隣で同じ体制になる。 その手には相変わらず、マグカップが握られている。 そうして、良く見なよ、と言った女の言葉通りに、女の視線を追い掛けた。 二人の住む部屋からは、近所を流れる川が見え、その上に路線を組上げて走る電車が見え、更にはその奥にそびえ立つ山が見える。 青紫の空を切り裂くような朝日が、山の隙間から顔を覗かせ始めていた。 しかし、女の言っているのはそれよりも手前の川の方にある。 「あ、本当だ」男が見つけて、呟く。 「嘘なんて吐かないよ」女は、煙を吐く。 二人は揃って、川を跨ぐように作られた橋の上にいる男女を見ている。 遠目から見ているが、年の頃は自分達と近しい気のする男は「まぁ、俺らもうら若き男女だよね」と言う。 「今、そういうの求めてないから」 「ごめんって。煙、掛けないで」 顔を歪めた女が、男の顔に煙を吹き掛ける。 それに、男も顔を歪めたが、直ぐに片手で煙を払い、橋の上の男女に目を向けた。 ちょっとコンビニへ行く程度のラフな格好の男性に、縦ラインの入ったワンピースの女性だ。 「あ、抱き締めた」 男性が女性を抱き締めると、珈琲を啜る男が小さく実況紛いに呟く。 女の方は「……どう思う?」と男を見た。 男は目を眇めた女を見て、ハテ、と首を捻る。 「どうって?」 「女性の方が走って来て、男性が追ってきて、女性の腕を掴んで抱き締める。どういう状況で、そうなるに至ったと思う?」 女が男の手からマグカップを抜き、一口飲むと、再度男に持たせる。 煙草は既に半分程になっていた。 男は、首を元の位置に戻すと、女の言葉を考えるように自分の顎を撫でる。 成人済みの男性にしては、滑らかな顎のラインだ。 「……川に飛び込もうとしているところを発見されて、逃げて、捕まった」 形の良い眉が、きゅっ、と寄る。 女も、その言葉に合わせて、眉を寄せた。 「何て?」 「入水しようと……」 「いや、やっぱり良いや。聞いた私が馬鹿だった」 「そんなこと言わないでよ。だって、あったじゃん、そういう小説」 男の指先が女に向けられる。 「それ、私の小説じゃん」女が短くなった煙草を咥えたまま、新しい煙草を取り出す。 そのまま新しい煙草の方を咥え直し、中途半端な煙草で新しく火を付ける。 チェーンスモーカーのそれに、男が指を下ろした。 「あれ、意外と面白かったよ」 「そりゃどうも。でも、あれは川じゃなくて海だし、少なくともアレは違うでしょ」 アレ、と女は吸い終わった煙草を潰しながら、未だ女性を抱き締めている男性へと視線を向ける。 男はポケットから携帯灰皿を取り出し、女へ差し出す。 それが当然であるかのように、女は吸い殻を放り込み、新しい煙草に口を付ける。 「うーん、じゃあ、生き別れの兄妹」 「三流どころか、五流小説」 「じゃあ、男の方がストーカー」 「警察呼ばなきゃいけないやつじゃん」 「女の方だと?」 「……それはそれで、ハッピーエンドっぽいけど」 女は煙草を吸い、男は珈琲を啜りながら、短い会話を繰り返す。 その間も、男性は女性を抱き締めたままだ。 それを見て男が「でも、めちゃくちゃイチャついてない?」と呟く。 女の方は片目を眇めると、緩やかにその頭を振った。 「さっきも言ったじゃん。男性が追ってきて、女性の腕を掴んで抱き締める、って。女性の方は、男性を抱き締め返してない」 長く伸びた灰を足元に落としながら言う女に、男がハッとした様子で目を見開き「あっ」と声を上げる。 見開いた目を細め、橋の上の男女を見れば、確かに、男性が女性を抱き締めてはいるものの、女性は男性を抱き締め返すことなく、手を強く握り締めて拳を作っていた。 抵抗こそしないものの、受け入れてもいない様子だ。 男はそれを確認すると「よく見えるなぁ」と感心したような声を出す。 それには反応せずに、女は「それを踏まえて?」と問う。 続く問い掛けに、男は目を瞬くと「そうだね」とまた、顎を撫でて頷く。 「まぁ、妥当なところでチジョーのもつれ、かな」 「……字を理解していなさそうだけど、痴情のもつれ、だね」 「妥当じゃない?」 「そうだね」 人差し指を立てて、男女に向けた男に対し、女は煙草の煙を輪っかにして吐き出す。 続けざま、その穴の中を射抜くように残りの煙を吹く。 男が小さく感心したような声を出す。 「……女が別れ話を持ち掛けて、男が納得出来ずに説明を求める。女にはどうしても男には打ち明けられない秘密があって、一方的な別れの言葉と共に身を翻す」 女の言葉の節々で、煙が宙へと放たれる。 足元に灰を落とそうとすれば、男がそれよりも先に携帯灰皿を差し込んで、灰を受け止めた。 「しかし、男は納得出来ずにその細い背中を追い掛け、華奢な腕を掴んで引き寄せる。きつく抱き締め……そうだな、愛の言葉でも囁かせるべきかな」 更に新しい煙草を取り出す女は、とうとう男性を突き放した女性を見て、興味を失ったように空を見た。 朝日に照らされ、空が白っぽくなっている。 「まぁ、結局は破局かな。抱き締め返さない上に、男女関係は特に片方の気持ちが離れた時点で、もう駄目だ」 新しい煙草の火を、朝日にかざした女に、男は確かに、と納得する。 男性を突き放した女性は、確かに再度走り去り、今度は男性も追い掛けられなかった。 項垂れ、ゆっくりとしゃがみ込んだ男性を見て、男もとうとう視線を逸らす。 「どちらにせよ、五流か」 「新作にはならなさそう?」 「そっちが使えば」 「無理無理。俺、風景画メインだし」 女の手から煙草を抜き取る男は、代わりにその手の中にマグカップを押し付ける。 軽快な会話を交わしながら、吸いかけの煙草に口を付けた男は、そのまま噎せた。 それを横目に女は、温くなった珈琲を啜り「残念」とボヤく。 それが、どちらに対する『残念』なのかは、男にはイマイチ分からないが、手早く、まだまだ長い煙草を、携帯灰皿に押し付けて潰す。 「それより、俺、紅茶飲みたいんだけど」 「人の珈琲半分以上飲んで言う台詞じゃないね」 サンダルを放り投げるように脱ぎ捨てて部屋に入って行く女。 それを追いかけるようにしながらも、自分のサンダルと女のサンダルを揃えて部屋に戻る男。 カラカラと音を立てて、ベランダと部屋を繋ぐ窓は閉められた。
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