(九)

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(九)

 神経を研ぎ澄ませ、ひたすらに沈丁花を追う。まだ発情期とはいえ、風に匂いが流されている。  途中で倒木に足を取られて転び、膝と腕をすりむいた。  ぬかるんだ土に足を滑らし、尻餅をついた。  それでも必死に沈丁花の香りを追った。  沈丁花の香りが必要だと言ったのは、それに紛れるためだったのだろう。花の時期だけは紛れて身を守ることができるから必要だと。 (残念だったな。今は夏だ)  何分歩いたかわからない。  水音が聞こえてきた。花の香りも強まっている。  足が自然と速まり、石らしい塊につまずいて、また転んだ。 「いてッ」  水音がぴしゃんと跳ねた。 「良様っ、どうしてここへ」  悲鳴にも似た秀の言葉だった。 「沈丁花の香りを追ってきた」 「そんな……」 「秀、どこにいる? 水の中か? そうなのか?」 「このまま消えさせてくださいませ」  秀は泣いているようだった。 「嫌だ!」 「知らぬこととは言え、実の弟と番ってしまったわたくしは、もう邪魔な存在です」 「僕には必要だ! 僕の番はお前しかいない!」 「その思いが、辛いのです。わたくしだけを思ってくださるのでは、人として赦されざる過ち」  声が、香りが、水音が離れていく。  僕はあらん限りの力を込めて叫んだ。 「目が見えないから僕を捨てるのか? お前の匂いしかわからないのに!」  息が上がる。それでももう一度叫ぶ。 「沈丁花の花の香りしかわからないのに!」 「ち、違います。わたくしも、わたくしも……」 「戻ってこい!」  パシャバシャと水に抗う音がする。 「戻れません! 水が、水が――」  悲痛な叫びだった。  僕は靴を脱いだ。  弱い波の寄せる岸から中へ入っていき、身を水の中へ躍らせた。  水は冷たかった。体を芯から冷やそうとするかのようだった。  クロールの腕が、自ら上げるしぶきが、花の香りを散らしてしまう。それでももがく水音はまだ聞こえた。だが、明らかに弱まっている。  真っ直ぐにそこへ突き進み、手を伸ばした。掴んだのは腕だ。ぐったりしているが花の香りはしている。  僕は曲げた左腕を、仰向けにした秀の首に引っかけ、平泳ぎに切り替えた。
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