1

1/2
1013人が本棚に入れています
本棚に追加
/26ページ

1

 渋谷駅前、午後1時。  清々しい秋風が、都会の雑踏を吹き抜ける。  厳しくもなく、かといって優し過ぎることもない秋の陽光が、高層ビルディングと青空の対照を鮮やかに描いている。  だが駅前から吐き出される人の波のうち、空を見上げて歩く人間など居はしない。誰しもが眼前の目的地に向かうことに専念し、前か足元しか見ていない。人生に於ける歩み方にしても同様で、自分の視野に映る以外のどんな世界があり、どんな生き様があるかなど、誰も注意を払わない。一時的に関心を置こうが、やがては己の手元を眺めるだけで精一杯になる。  都会という場所は人間が大勢居ようと、視線が交わることは決して無く、横に繋がることもない不可思議な空間だ。  数の多さは調和と仲間を生むのではなく、自らの孤独を浮き彫りにするだけなのかも知れない。  交差点の青信号が点滅に変わるころ、人込みの中のどこかで携帯電話の着信音が鳴った。  しかし誰一人としてそちらの方を見ようともせず、自分の携帯でメールを打ったり、信号をあてもなく眺めている。  やがて、端の方を歩いていたジーンズにサングラス姿の若い男が、黒革のジャケットから携帯電話を取り出した。画面は非通知着信を指している。  これほどの集団歩行者の中にいながら自分に聞き耳が立てられないのを幸いとばかり、若者は「はい」と出る。 『――“ロシアンブルー”か』  素性を確かめる、遠慮がちの声が耳に飛び込んで来た。  幾分年配の、恐らくは60代の男。話し方に粗雑さは微塵もなく、緊張を含んでいても総じて沈着だ。かなりの地位にある人間だろうと、若者にはすぐさま見当が付いた。短い電話一つでも人は来し方が出るものなのだ。  もともと、彼に掛けて来る者で並の階級の人間はいないのだが。  というのも、この携帯番号を知る者は殆どいない。ある筋の人間達のごく一部に、密かに伝わっている以外は。  これを調べることが出来るという事実は、それだけ調査に金を注ぎ込めるということであり、従ってそれなりの財力を――裏社会とも手を組んでいる程の――有しているということになる。 「そうだ」  ロシアンブルーと呼ばれた若者が短く答えると、相手は一拍だけ間を置いた後で、息を押し出すように続けた。 『君に助けて欲しい。君の力が必要なんだ』  この若者に頼る時には誰もがこう切り出す、取引開始の合図。  若者は道路を渡り切り、109の前に立つと、どこへ行けばいいのかと端的に尋ねた。 『今日の午後3時、品川駅前の久世商事に来てほしい。受付に話は通しておくから、武藤という名前を名乗ってくれ』 「承知した」  相手がまだ不安を覗かせているのも構わず、若者は電話を切り、交差点から空を仰いだ。  普通に糧を得ている人間は、社会常識と法律と名付けられた日光に照らされ、世間という地面に存在の影を落とすが、裏の社会で生きる人間はその日光にも照らされず、従って存在の影を落とすこともない。  そうやって影もなく生きる人間の多さを、まっとうに生きる人々の中で、果たしてどれだけの者が把握しているだろうか。  そんな中で、青空を輝かせる陽光だけは、どんな生き様を送る者にも平等に降り注ぐ。  自分のそばを擦り抜けて行く学生達、あるいは同年輩の男女の屈託の無い笑顔を見渡してから、若者は隠しに電話を入れ、人の波に逆らうように姿を消した。
/26ページ

最初のコメントを投稿しよう!