第零章 プロローグ

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第零章 プロローグ

 子供のころ、男の子が女の子をいじめている光景を見たことがある。それは、私の知り合いの男の子と女の子だった。  女の子は嫌がっていたが、男の子は止めようとしなかった。だから私は言った。 「好きな子をいじめるのはいいけれど、怪我をさせたら嫌われるのは当たり前じゃない」  男の子は以前、いじめている女の子を階段から突き落としてしまったのだ。好きで好きで、自分を見てほしくて男の子は好きな子をいじめてしまうのだという。そんな気持ち、わかるはずもなかった。わかりたくもなかった。  好きな女の子の前で私がそんなことを言ったものだから、男の子は赤面して振り上げていた右手を渡しに振り下ろした。殴られても構わなかった。好きな女の子の前でそんなことを言ったのだから、殴られる覚悟だってあった。  けれど、私は殴られることはなかった。何故なら、振り上げていた男の子の右手首を掴んでいる人がいたからだ。この街に、人族の子供の喧嘩を止める人はいないといってもいい。それなのに、私の目には男の子の右手首を掴む手が見えた。しかし、それは人族のものではない。  男の子も掴まれてそれが人族ではないとわかったのだろう。顔を引きつらせながら、自分の右手首を掴む者を見上げた。そして小さく悲鳴を上げた。 「女に手を上げるのは、男として最低だぞ」  男性は睨みつけてはいないのだろうけれど、身長が高いため睨みつけられているように見えるのは仕方がない。掴んでいた手を振り払うと、男の子と女の子は悲鳴を上げて私を置いて逃げてしまった。  走って逃げていく2人を見て、私を助けてくれただろう男性は小さく息を吐いた。悲鳴を上げられることには慣れているのかと思ったが、そんなはずはないだろう。どんな者でも、悲鳴を上げられたら傷つくもの。  はじめて会う男性が、傷ついているのかはわからない。彼の表情から読み取ることすらできない。けれど、彼には言わなくてはいけないことがある。 「助けてくれて、ありがとうございます」 「なぜ、抵抗をしなかった?」  その言葉に私は首を傾げた。抵抗する理由がなかったからだ。手を上げられたのは、私が悪いとわかっていたから。だから、抵抗する理由はない。  何も言わずに首を傾げたままの私に彼はもう一度小さく息を吐いて何かを呟いた。それは「やはり、人族にとってこの姿は恐ろしいか」という言葉だった。  彼が何を言っているのかわからなかった。しかし、私が黙って首を傾げている姿を見て、どうやら怖がっていると思ったらしい。どうせ、彼には二度と関わることはない。そう思いはしたが、誤解だけは解いておきたかった。何故そう思ったのかは、あのときの私にはわからなかった。 「あなたのことが怖いわけではないの。抵抗しなかったのは、私が悪いからなの」 「……詳しくは聞かないが、友人は大切にしないといけない」 「友人? 私のことを友人と思っている人はいないわ」  私の言葉に、彼の表情が歪んだように見えた。わかりにくいが、それは私の言葉に悲しんだのかもしれない。会ったばかりの彼のことはわからないけれど、きっとそうなのだろう。  黙って私の頭を撫でてくれる彼の右手はとても優しかった。そんな彼を怖いと思うはずはなかった。  友人と思っている人はいないと言ったことに悲しんだであろう彼。何も言わず、聞くこともなく頭を撫で続けてくれた。両親に頭を撫でられたのは、まだ幼いころ。それでも、彼に頭を撫でられたことがとても嬉しかった。 「気をつけて帰るんだぞ」  暫く黙ったまま頭を撫でてくれた彼は、それだけ言うと私から離れて行った。私は黒いその背中を黙って見つめていた。  彼の姿は、私が成長しても忘れることはなかった。顔は覚えていないけれど、声と黒い彼の背中だけははっきりと覚えている。しかし、それ以外は何も覚えていない。  けれど、私にはわかる。今目の前で椅子に座り、右手で紅茶の入ったカップを持って僅かに目を見開く彼があのときの彼だということを。きっと彼は私のことを覚えてはいないだろうけれど、私は覚えている。  まさかこんなところで会うとは思っていなかったけれど、漸く探していた彼に会うことができたのは嬉しく思う。状況はよくないけれど。  彼に会うことができたのは、今日の朝突然父様に言われたことがきっかけだった。そのときは嫌だった。彼に会えるとは思っていなかったし、私には好きな人がいたのだから。  私の好きな人は今目の前にいる彼。きっと一目惚れだったのだろう。彼のことを忘れることができなかったのだから。けれど、父様に言えるはずがなかった。何故なら、彼は人族ではないからだ。  だから、私は断ることができなかったのだ。
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