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ただ、君に逢いたい
優しい春雨の降る午後、霧けぶる崖端の小道をトウカは行く。
湿った道はすべりやすく、今にもぱっくり横に開いた黒い淵に引きずりこまれそうだ。
しかしトウカは裸足のまま鼻歌を歌いながら前に進んだ。
外套は水分を吸ってみっしり重くなっていたけれど、なんだかひどく高揚した気分だったのだ。
(もうすぐ、谷に帰れる……)
トウカの国には世にもめずらしい植物がたくさんあった。
今まで何人の泥棒が、生命の草や神樹を狙ってやってきたことか――それをたった一人でしりぞけるのが見張り番の役目だった。
その役もあと一月で終わる。
交代がくれば、トウカも故郷の村に戻れるはずだった。
いつもの見回りを終え、意気揚々、崖の中腹にある見張り小屋まで戻ってきたトウカは、思わずぎょっとして立ち止まった。
見慣れた猫の額ほどの岩の斜面、そのはしに若い男が倒れている。
年のころは二十代前半。
黒い短髪に整った顔立ち、長袖の上着にゆったりした長袴と革長靴。
とにかく全身黒一色、まったく知らない顔だ。
おそらくは――侵入者。
それでもトウカはその時、どうしても気を失っている賊を奈落の底へ突き落とす気になれなかった。
男は盗人にしてはひどく甘い顔つきだったし、転がった背負い袋を確認したところ、中には竪琴が入っていたのだ。
――道に迷った楽人かもしれない。
さんざ躊躇したすえ、トウカはとうとう男を小屋に引き入れた。
命を救うと決めたのだ。
薄紅色の煎じ薬を飲ませ、日暮れがせまったころになってようやく、男は目を覚ました。寝台の上で起き上がり、ここはどこだ、と額に片手をあてて問うてくる。
「ここは霧の国、シバの砦だ」
「じゃあ俺は、迷い森をぬけ出られたのか」
「そのようだな」
最初にことわっておくが、この国で嘘をつくと大変なことになるぞと脅かすと、心得ているとでも言いたげに男は弱々しくうなずいた。
「……ここは俺たち人の住む現世じゃなく、精霊があまた住む幽世との境なんだろう。霧の国というと……俺は死んだのか」
「まだ死んではいない。おまえ、名は」
「俺はヤトラ。あんたは……?」
「ここの番人だ。スサ渓谷のトウカという」
すると男はトウカの裸足を見て苦笑した。
「……しかし境界を守っているのが亜麻色の髪した精霊の戦乙女だという噂は、やはり本当だったか……」
教えてくれトウカ、俺はこれから精霊王の奴隷として一生仕えるのか。艶めく黒檀の瞳に恐れの色はなく、トウカは息を飲む。
「王がお認めになるのは、あくまで我らの役に立つ人間だけだ」
思わず固い声を出すと、
「なるほどな。しかし俺が有用か無用か、それを見極めて王に取りつぐのは、番人たるトウカのお役目だろう?」
ならばあんたは、すぐに俺を殺したりはできないはずだよな、とヤトラは肩をすくめた。
「しかし、そのようすじゃ……ひょっとして生きた人間と、こうして問答するのも初めてなんじゃないか。そんなであんたはちゃんと俺を判別できるのか?」
すべて見通しているような、俯瞰した物言い。トウカはかっとして口を開きかけ、すんでのところで言葉を飲みこんだ。
(ダメだ、こいつのやり口に乗せられては。まだ猶予は一月ある。それまでこの男をよく観察して、決めればいいだけのことだ)
大きく息を吸うと、片手をさし出した。
「ヤトラとやら。おまえに私の金の指輪をやる。これを右の薬指につけろ。そうすれば今から正式に、おまえは私の監視下に置かれる」
そう。ここは精霊の治める幽世で――ヤトラは一介の無力な侵入者で。
人間と精霊ははるか昔からあいいれない者同士で、それゆえちがう世に住んでいて……、今、境界を犯した男の生殺与奪の権をにぎっているのは、あきらかにトウカのほうなのだから。
こうしてヤトラとの奇妙な共同生活が始まった。と言っても、トウカは普段と変わりない日課をこなすだけだ。
日の出と共に起き、簡素な白の貫頭衣に帯をしめると革のすね当てやら肘当てをつけ、髪を後ろで一つにしてから小屋の前で一通り体術の鍛錬をする。
掃除をすませ、午前中は崖の西側を見回り、途中の泉で水をくむ。
小屋に戻り昼飯を済ませ、午後は東側を見回る。
日暮れとともに食事をし、星を観たあと寝床に入る。
晩に夜泣き鳥が鳴いた翌日には、街道ぞいに生えた大木の根方に食料や衣料が届いた。
だから荷車で荷物を引き取りにいき、同時に調達したい物を書いたかきつけを大木のうろに入れ、戻る――。
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