レッドリスト

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レッドリスト

 死んでしまおうと思った。  崖の上から荒廃した大地を見ていると、風がスッと僕の背中を押すように吹いてくる。あと一日、もう一日、そうしているうちに崖の上の木々に花が咲き、少ししてから緑が生い茂った。やがて赤くなって、はらりはらりと谷底に飲み込まれていく。  僕は毎日、律儀に崖に出向いて飛び降りることなく家に帰っていた。出迎えてくれる彼女は僕がどこに行っていたかといことを問い詰めない。いつも落ち着いた笑顔でおかえりなさいと僕の上着を預かった。  もう何度、風に乗った葉が谷に落ちていくのを見たのかわからない。花が咲く様子も見飽きてしまった。回数を数えなくなってしばらくして、僕は崖に足を運ぶのをやめた。運べなくなったというほうが正しいだろう。僕の口に柔らかい食事を流し込む彼女は、相変わらず綺麗に口角をあげていた。 「いまごろはきっと、紅葉がみられるんだろうな」 「紅葉ですか」 「もう少ししたら、葉が落ちる」 「落ちる……」  特に楽しい会話があったわけではないが、毎日、一言二言話すだけで十分だった。彼女は文句の一つも言わずに、甲斐甲斐しく僕の身の回りを世話してくれる。僕は毎日感じたことをただひたすら手帳に書きためていった。  書ききれなくなった手帳を彼女に預けると、それを鍵のかからない金庫にしまってから新しい手帳を僕に手渡してくれた。紙は貴重な資源だ。だからこそ、使ってしまわねばもったいないではないか。  やがて、僕の字はほとんど読めないものになっていった。 「なあ、きみ。僕はね、もう死のうと思うんだ」  何度目かわからない言葉を口にすると、彼女は相変わらずの黒髪を揺らして、首を傾げた。 「死んでしまうのですね」  無感情な声が、老いた身体に心地よく染み渡る。僕の左腕に刺さった針を指さして、彼女に正確に指示を与える。まだ、そこまでボケちゃいない。これくらい、簡単に伝えられる。 「あと少ししたら、この針を抜いてほしい」 「少しとはどのくらいですか」 「そうだなあ、五分だ。あの砂時計をひっくり返してくれ。その砂が落ちきったら、話の途中でも、この針を抜くんだよ」  彼女は僕の隣から立ち上がり、砂時計をひっくり返す。最初は詰まっていた砂が、少しずつ流れ始めた。あの砂時計が正確に時を刻むとは思えない。けれども、今から僕が死ぬまでの時間は、間違いなく五分なのだ。 「僕が死んだら、裏庭の穴の中に入れるんだ」 「私も一緒に?」 「いいや、きみは入らなくていい。僕を入れたら土をかぶせてくれ。少し大変かもしれないが、小さな丘ができるくらいがいい」 「わかりました」 「それから、きみは私を埋めた場所の上に座っていてくれればいい」  こんなに彼女と話したのはいつぶりだろうか。出会ったころから不愛想で無機質だったが、その造られた笑顔は確かに僕の癒しになっていた。僕があの崖から飛び降りなかったのは、彼女がいてくれたからかもしれない。 「きみは、幸せだったか?」 「私にはわかりかねます」 「そりゃあ、そうか」  様々な考えが脳裏を駆け巡る。ちらりと砂時計を見ると、もう半分ほどまで砂が減っていた。 「ああ、大事なことを忘れていた」  手帳を取り出し、力の入らない指でペンを握る。震えでうまく書けないでいると、彼女がそっと手を添えた。そういうことができるようになったのか。と思ったが、彼女が成長するわけはない。たまたま、その行動が最善だと導き出されたのだろう。 「今日は、何日だったかな」 「三月の四日です」 「ありがとう」  できるだけ急いで文字を書く。彼女の冷たい手がやたら気持ちよかった。彼女に手帳を預ける。いつの間にか、砂は落ちきってしまっていた。彼女は金庫の扉を閉めて、相変わらず口角をあげたままで僕に告げた。 「時間です。針を外します」 「ああ、頼むよ」  手際よく、彼女が僕の腕に刺さった針を抜く。薬剤の注入がなくなったとたん、ボクの意識が遠のき始めた。もしかすると、この五分間こそが、僕の人生そのものだったのかもしれない。彼女は指示に従って僕の死体を裏庭に埋めるだろう。僕の墓の上に座ってそれから、三日して彼女も死ぬのだ。  常に落ち着いた笑みをたたえているはずの彼女が、悲しそうな顔をしているように見えたのはきっと僕の幻想だろう。  三〇八二年三月四日 ヒト絶滅 (16/12/15時空モノガタリ【五分間】最終選考)
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