遮光

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 僕の住んでいるマンションの向かいに、新しいマンションが建つようだ。  ようだ、と言ってもすでに八割方は完成しているのだが。  僕の部屋はマンションの九階で、西側の窓から奥多摩が遠く望めた。マンション、と言っても築三十年のぼろい賃貸マンションなのだけれど、この眺めが意外と気に入っていた。  たとえば。  春には、あのあたりでも桜が綺麗だろうかと思いを馳せた。  夏には、あのあたりではさぞ緑が深かろうと思い巡らせた。  秋には、あのあたりでは紅葉の盛りだろうかと思いを募らせた。  冬には、あのあたりでの雪はさぞ寒かろうと慮った。  それらより比較的近くに見える、隣の駅の営みを想像することもあった。  朝。世界が動き出した頃。あそこの駅でも他と同じように、多くの人が急ぎ足なのだろうか。電子マネーの残高が足りなくて改札を突破できない人が一定間隔でいるのだろうか。朝帰りで、人の流れに逆らって眠そうに歩く人もいるのだろうか。  昼。世界が穏やかな頃。客足は比較的少ないのだろうか。世界の擾乱からは切り離されてゆっくりと歩く人が多いのだろうか。誰の上にも日は平等に照るのだろうか。  夜。世界が終わり始めた頃。多くの人が疲れた足取りで行き交うのだろうか。電子マネーの残高が足りなくて改札を突破できない人が一定間隔でいるのだろうか。誰の上にも闇は平等に降りるのだろうか。  遠く、微かに灯る信号機を見つけて、その周囲の営みを思い心奪われることもあった。  赤。誰かがきっと立ち止まった。あるいは、立ち止まらずに行き過ぎた。  黄。誰かがきっと急ぎ足になった。あるいは、歩を緩めた。  青。誰かがきっと歩き始めた。あるいは、立ち止まった。  これらのすべては、僕の手も目も届かない遥か遠くの出来事であり、所詮は夢想、単なる空想に過ぎないのだった。しかし逆に言えば、これらは夢想であるがゆえに、遥か遠くの出来事などではなく、僕の頭の中という非常に身近な場所で起きた出来事であった。僕だけのものであり、僕だけが知るものでもあった。
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