34人が本棚に入れています
本棚に追加
「お前、またあんな鬱陶しいものに憑かれて来やがって……」
声に振り向けば、二股の尻尾に赤い糸を結んだクロネコがいる。
「良いではないですか。祓うのが私の務めですよ?」
クロネコと交した約束の千にはまだまだ程遠い。
「今日は、どうしました?」
今様を観ずにクロネコは帰ってしまったのだ。
「別に……そんな気分じゃなかっただけだ」
何となく、心許ない風情に見えてしまい、涼音はクロネコを抱き上げる。
『気安く抱きかかえるな』と、叱責を受ける前に、涼音は先手を打った。
「ここは私の夢枕。夢の中でくらい好きにさせるべきでは?」
眉間に皴を寄せるも、クロネコは口を噤んだ。
それは許しの証。
暫くの間、彼の毛並みを整えるように、涼音は手を滑らせた。
「なぁ、あの時……どうして身代わりに成ろうなどと出来た?」
弟、涼の穢れに触れた時のことだと直ぐに理解できたのは、ちょうど昼間に思い起こしていたからだ。
「誰かのために死ぬことは、誰かのために生きることよりも安易だったりするのですよ」
少なくとも、あの時の涼音は涼を失うことの方が怖かったのだ。
「……そう……かもな」
そっぽを向きながら、苦々しい口調でぼそりとクロネコは零した。
そして、涼音の腕の中から抜け出るや、心機一転に牙を剥いた。
「次は浅ましいまでに、生きることを選択しろ。弱ぇ、奴なんざ鬱陶しいだけだっ!!!」
「か、畏まりました」
急に怒気を漲らせたクロネコに面食らったが、いつも通りに元気になったようで良かったと、涼音は笑んだ。
「な、何を笑ってやがる!?笑う暇があるなら、構えろっ」
まさか、これから鍛錬を始めるとは流石に思わなかったが、クロネコは容赦なく精神波動をぶつけて来た。
「くっ……!」
荒れ狂う大波のようなそれに飲み込まれる前に涼音は宙に跳ぶ。
「まったく……本当に気紛れな師だ」
バラリと扇を広げて唄を口ずさむ。
『そよ 天つ風 涼しくもあるか うちよする 荒ぶる風も 同じと思えば』
(天の風よ 涼しいものだよ 打ち寄せる 荒々しい風も 私『涼』の風だと思えばね)
扇を翻せば、クロネコの荒ぶる風がまるで巻き糸のように巻き取られる。さらに天に向けて扇げば、それは大龍のように昇って霧散する。
そんな、クロネコと涼音の攻防は夜が明ける頃まで続いた。
「ふぅ……秋の夜長とはよく言ったものですね」
夢の中とは言え、疲労感は凄まじい。
涼音は玉の汗を額に浮かべる。
僧や祈祷師、そして陰陽師などは精神力を神通力に変え、呪術を行使する。いかなる時でも確固不抜であることが求められ、霊力を鍛えることは、精神力を鍛えることに等しい。
夢、つまり精神世界は正に格好の場と言えた。これまでも涼音は、このようにしてクロネコに鍛え上げられてきたのだ。
(涼から少し妙な気配を感じて、夢へ来てみたが……。気のせいだったか?)
(まぁ、もう俺が気に病まずとも、大抵のものは祓えるようになったか……)
「人の成長とは早いものよな……」
荒れ狂う雷撃を放ちながら、クロネコは誇らしげに、そしてどこか寂し気に口角を上げていた。
最初のコメントを投稿しよう!