赤い糸

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 あふっ  扇の下で涼音は何度目かになる欠伸を噛み殺す。 どうして、こんなに眠いのか。 その原因、否、元凶が目の前でスヤスヤと眠っている。 対殿に向かう透渡殿(すきわたどの)日向(ひなた)にて、微睡むその姿を見て取った涼音は、恨めし気な視線を送り付けた。 「良いですね、朝も夜も同じくするあなたは」 中庭の池がユラユラと波打つさまのように、心地良さげであった。 傍で膝を付くと、クロネコは半眼を開けた。 「涼音。俺はもう行くとする」 「え……?」 大様に身を起こし、弓なりに伸びをする。 そして、涼音が尻尾に結んだ赤い糸に目配せをした。 「(はず)せよ」 涼音が息を飲んだ音が、クロネコにも届いた筈だ。 「一人で……行ってしまうのですか?」 「ああ」 目を逸らすことなく、クロネコは具に涼音を見つめていた。 「私を見届けるのでは?」 まだ千には遥か遠い。 それもようやく、叶い始めたばかりだ。 「そろそろそれも飽いた」 クロネコの瞳は揺るがない。 もう決めてしまったのだろう。 (いつから……?) 涼音は膝に置いていた手をギュッと握り込む。 動揺を見せまいと、目に力を込め、口の内側で肉を噛んで誤魔化した。 泣いて、縋ってははいけないのだと、傍にいると決めた時にはこの時を覚悟して、そう決めていたのだ。 「道に迷った時はいかがいたしましょうか」 「知るかよ。迷って足掻け。それが人というものだろう?」 あなたがですよと、軽口をたたけば、「ならば、祓いに来い」と、笑って牙を見せた。 「涼音、()け」 きつい口調とは裏腹に、鋭く厳しい眼差しはそこに無かった。  このように似合わない目をされるようになったのは、いつの頃からだったろうか?と、涼音は思い返す。 (ふふ。最初は幻覚かとさえ思った)  慣れない頃は、面映ゆく、目を伏せることさえあった。 今では、時を惜しんで魅入ることが増えた。 『神さぶと いなにはあらず 赤糸の 結びし紐を 解くは悲しも』  (神のように否と偉そうに言う訳ではありません。あなたとの運命の糸を解くのが哀しいだけです) 「辞世の句などではありませんよ」と、悪戯に微笑む。  込み上げてくるものを必死に黙らせ、震える指先を押し殺し、涼音は陰陽師らしく確固不抜の意志で紐を解いたのだ。 「いってらっしゃいませ」 涼音は三本指を揃えて、静かに面を伏せる。  別れの言葉はどうしても言いたくなかった。  気紛れにでも、涼音を思い出す日があれば、あるいは会いに帰ってくる日が来るのではないかという期待を込めた言葉だった。  そろそろいいだろうかと、顔を上げる頃にはクロネコの姿はもうどこにも見られなかった。  ただ空しく、稲穂の匂いを含む懐かしい風が、涼音の濡れた頬を冷やして行くだけだ。
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