赤い糸

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『いいか、涼。夢では全てが幻。痛いと感じるなら、それは己が勝手に暗示を掛けているに過ぎない。陰陽師らはそれを、(うつつ)でもするのよ』  鬼神である早良親王は、涼音が悪鬼怨霊を祓えるべく(ことわり)を説いてきた。 『神通力が備われば、夢の如く現でも思いのまま暗示を掛けられるものよ』  例えば涼音が心太にして見せたようにだ。  瞬きに閉じた目を、真っ暗になったと思い込んだが故に、開けることを身体が忘れた。 暗闇にしているのではなく、暗闇になったのだと、当人が思い込んでいるうちは瞼を開けることができない。 『つまりは俺がお前の首を刎ねようと、お前は痛みも無ければ、死にもしない。分かったな?』 などと、言いながら早良親王は腰からスラリと帯剣を抜いた。 『なっ!理屈としては分かりましたが、承服できません!』 『まぁ、習うよりは慣れろだな』 有無を言わさず斬りかかる鬼神に、師としての人選を誤ったと、それこそ死ぬほど後悔した。 鬼神が刃を振る度に、風圧で地面に波目の跡――青海波(せいかいば)が描かれていく。  立場上は深窓の姫君、その実態は男装しては弟の(りょう)に扮して駆けまわる破天荒姫。けれども、剣術、体術など指南を受けている筈もない。 涼音は全力で逃げた。 それも、情けないほどに悲鳴を上げて。 『阿呆か。逃げてばかりでどうやって神通力が増す?』 『本当に死なないので?今の理が正しいのなら、私自身が死んだと自覚してしまえば、夢とは言え、私は死にはしませんか?』 『……かもな』 (おいっ!!!)  大雑把というか、器が大きいというか、とにかく適当が過ぎる性格故に、最初は頭を抱えることばかりだった。  そんな暴れ馬に乗るような修行は、いつしか霊力もだが体術の方も身に付いた。 常人は夢でさえ、思うが(まま)とはいかない。 涼音も最初はそうだった。思うが儘に動けるようになるのに一年、神通力を培うのに三年。 「ふふふっ。あの頃は本当に、本当に、あなたが怖かった」 両手を口元に添えて笑いを零す。  足裏の傷はすっかり綺麗に消えている。 それどころか、夜着は真新しい青海波の狩衣装。 そして、足元は一本歯の高下駄だ。 茨の道も、灼熱も涼音を動揺させるには至らない。 「悪夢のお陰で懐かしい日々を愛おしむことが出来ました」 パラリと扇を広げ、高下駄をかち鳴らしながら舞うのは胡旋舞。 ここは夢。 舞ったことなどなくとも、思い描いたように舞える。 「青丞殿、あなたの手ほどきを受けてみたかったですね」 気付けば辺り一面、青い花の咲く花園と化していた。 『くっ……これほどとは』 口惜しさにも、王旭は何処か愉し気な心持になる。 『欲しいぞ……。これほどの器を我の傀儡と出来ればっ!』 その夜以降も、王旭の追撃は止むことはなかった。 つまり、王旭は涼音の舞を夜毎愉しんでいたことになる。 『欲しい……欲しいぞ』 それはまるで執念深い歪んだ恋慕。  王旭は水盆の底に手を鎮めて、決して触れることのできない涼音に手を伸ばしていた。 一人の人間にこれほど心奪われる己を王旭は知らなかった。 (人に期待するのは無意味。そう悟ったのはいつだったろうか……)
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