赤い糸

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 王旭は遥か大陸の一国の皇子として産まれが、決して恵まれた環境では無かった。 母は海を越えた東国から流れ着いた娘で、後ろ盾とする者を何ひとつ持たない者だったからだ。  珍しい毛色という理由だけで王に献上された。者ではなく、まさに物だったのだ。 皇子を産んだがそれも意味など持たなかった。  王の寵妃は数知れず、所詮は母など余興の一つに過ぎなかった。 『なぁ、奴姫(ぬひ)よ。お前が此処で暮らすと言うなら、皇子を弑して見や』 側妃たちが、母の髪を掴んで夜叉の如く目を光らせるのは『妬み』などではない。 それはそうだろう、女の園と言うべき奥宮は、王の寵愛を勝ち取るべく熾烈な争いを繰り広げる女だけの(まつりごと)の場だったが、それは何も王を愛して止まないからという理由では無いのだから。    籠の中の鳥の如く、女たちは暇だった。 怠惰とは、人を夜叉に変えるものだと王旭は初めて知ったのだった。    そんな中において、母は皇子を産んだが為に、格好の餌食とされてしまう。 『ねぇ、あなたの子を毒味役とするのはどうでしょう?皇子とは言え、毒にも薬にもならない子。いいのではなくて?』 王旭は気付けば奥宮の毒味役として使われることになっていた。    そんなある日、河川敷で行われた春の宴席の場で、母が口を付けようとする粥を、官女の一人が止めた。 「あなた様の粥を毒味する者が在りませぬ。暫くお待ちくださいませ」    母の毒味役として現れたのは、王旭だった。実の子を毒味役に立てるという恥辱を、母に与えているなどとは考えられないほどに、王旭にとっては日常的であったのだ。 「母上、私が先に……」 むしろ母に何かあってはならないと、日頃より慣れていた王旭は、少し誇らしげに粥を口に含んだのだ。 「……うっ」 舌先が痺れるような妙な感覚に気づいたのは、胃にまで落とした時だった。 含んだ全てを吐き出さなければと、そのままフラフラと歩いて倒れ込んだところが不味かった。 何ということもない岩目に突き刺さっていた棒っ切れの先が、王旭の片目を潰した。 「あはははっ」 悲鳴では無く、喝采の如く後ろから聞こえて来たのはそれ。  何故嗤われるのか、薄れる意識の最中で抱いた疑問に答える者はいなかった。  後に、毒を粥に含んだのは母自身だと知れる。 母は自ら命を絶とうとしたのか、毒味役である王旭を弑しようとしたのかは分からない。 『お前さえ産まれて来なければ……』  生死を彷徨う最中で聞いた声音が誰のものであったのか、それも定かではない。  そして、毒を盛った罪で、母はその生涯を牢獄で暮らすことになる。 「ふふっ、何を愚かなことを?元々ここは牢獄ではありませんか?」 その皮肉が王の逆鱗に触れ、母はその場で斬捨てられた。 そして、王旭は独り生き残った。  最早(もはや)、なんら感傷を抱くことはなかった。  産みの恩の区切りをそこで付け、王旭は一人、王宮を旅立った。 この身のしがらみ全てを捨て、己が何者であるか示して見せる。そう、心に誓いを立て、己だけで生き抜くと決めたのだ。  先ずシルクロードを西に向かって旅立った。そして、導士と呼ばれる者と縁を結ぶことになる。    導士は王旭の鈍色の目を(いた)く気に入った。 近くで見たいと、酷くカサ付いた薄汚い手に顔を包まれるも、王旭は別段気にする風でもない。 「(ぬし)の眼には、何か得体の知れぬものが潜んでいるな」 「?」 「珍しいなぁ。人の醜悪を散々見てきた為か、魔物の眼が備わって居るわ」 憎悪は魔を呼び込む。王旭の片目が死んだ時、魔物の眼に挿げ替えられたのだと、導士は語った。  にわかには信じがたい話だが、鈍色の眼が人ならざる者らを捉え、不思議の力を持つのは事実だった。    それから幾つもの国を渡り歩いた末に、王旭はマラ王と出会う。 正確には彼はまだ王では無かったが、王旭と出会ったことでその道が急速に拓かれ、マラは王位を手に入れたのだ。 王旭はマラ王を心から崇拝していた。 ──彼こそが王の中の王、我の(あるじ)となるに相応しい。 そう信じて露ほども疑わなかった。 けれど、ある日のことだ。 そんな王旭の占に凶相が出る。 「王、マラ王よ。あの女に信を置いてはなりません。あれは、王に災いを運ぶ者に他ならない」 必至に訴えるが、舞姫に魅入られた王は聞く耳を持たなかった。 そればかりか、用済みとばかりに王旭を追放したのだった。 こうもあっさりと切り捨てられる身であったのかと、王旭は酷く失望した。 ──我の言葉が真実だったと、身を滅ぼすその時になって悔いるがいい。 そんな気持ちで垣間見た水盆に映るマラ王の姿に絶句する。  悔いるどころか、『我が人生に一片の悔いなし』とでも言うかのような満足気な死相だったのだ。 「……何故だ?」 王旭には分からない。塵程にも理解できなかった。 一方で彷徨う舞姫を胡人俑の形代に取り込み傀儡としたが、これに惹かれたマラ王の気持ちも、本懐を遂げて尚、死を選んだ舞姫の気持ちもまるで理解できなかった。 「マラ王よ。これは舞姫に執着したお前の心がそうさせているのか?」  水盆の底はこれまで垂らした血――穢れた怨嗟の(おり)で赤黒く濁っている。  険しい表情ながらも美しい面差しの(ひと)は、穢れを寄せ付けない。 それに安心感を覚えるのは何故なのか? 「時は十分に満ちた。今宵こそ我のものにしてやる」  芽生え始めている何かを、邪な執着心に紛れさせることで、王旭は己の心を誤魔化していた。
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