赤い糸

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「あ、あの……本当にそこで……?」 此処は左大臣の大邸宅『川原院』の涼音に与えられている離れの一室。 「鞍馬殿、ご安心を。この彦左(ひこざ)が控えております故、安心してお休みくださりませ」 部屋の片隅で腰を据えている家扶(かふ)の彦左が、涼音が問い掛けた彼らを飛び越えたところで応える。 『大丈夫ですよ。彦左は下がってください』と、言ったところで受け入れてもらえる気配はないので、首を竦めるに留める。 「そうだよ。涼殿が眠ってくれないと始まらないからね」 弓削は涼音の眠る褥の真横で居直り、横になるよう促す。そして、その少し後ろでは川仁が急かすように顎先で促してくる。 「……はい。では、よろしくお願いします」 褥の上で、丁寧にお辞儀をして横になれば、彦左が行燈を吹き消した。 「……」 (ど、どうしよう。ね、眠れない) まさか、相談した結果がこのようなことになろうとは思いもしなかったのだ。涼音は若干早まったかと悔やんだ。  毎夜、悪夢にうなされ、それ自体は祓ってしまえるのだが、元凶を掴めないで焦っているという旨を伝えた結果が今のこの状況だった。    『頼り所を見誤ってはならないよ』その言葉に後押しされて、涼音は弓削と川仁の双方に頭を下げて、助言を請うた。 「それは、困ったね。でも、話を聞く限りではあなたの夢の中でしか元凶は手が出せない状況だということだ」 涼音は、同意に頷いた。 「おそらく……、私を捕らえようとしているのだと思うのです。近頃、糸が垂れているのに気づいたのです」 「糸?」 「ええ。掴ませたいのではないかと……」 最初の頃は視えなかったそれが、近頃では見え始めた。そのことが拍車を掛けて涼音を(あせ)らせ、怯えさせもしていた。 「私がすぐさま連想したのは『蜘蛛の糸』です」 ある咎人が、黄泉(地獄)に堕ちた。  唯一、咎人が生前に救ったという一匹の蜘蛛が、恩返しを図ろうとする逸話。地獄に落ちた咎人に、蜘蛛は弥勒菩薩の手から糸を垂らすことを許された。咎人はそれに救いを求めて、すぐさま縋りつく。けれども他の亡者らもそれに気づいて我こそがとその細い糸に縋っていく。 『これは俺が見つけた俺だけの糸だ。お前たちは地に堕ちろ』 咎人は糸を揺らした。それを見た弥勒菩薩は『救うに能わず』と、糸を断ち切ってしまう。 「甘い罠に視えました。私が悪夢に根負けして、糸を掴んだが最後なのかと……」 火攻めに、水攻め、獣を(けしか)けるなど、悪夢は掴ませようとする魂胆が見え見えなのだ。 「そうだね。同感だ」 「けれど、糸を掴まねば元凶に辿り着けない。そうとも思いました」 弓削も頷く。 「私もあなたの夢枕に立ってみようか」 「やめてください。肉体を離れるのは危険です!」 夢枕に立てるのは幽体、霊体という類のみ。 身体を現世(うつしよ)に持つ者が他者の身体に入るのは危険が大きいと知っている。 下手をすれば戻れずに死に至る。 それだからこそ、元凶とする者も涼を手繰り寄せようとはしても、自ら入ってくることは無いのだ。 「あいつはどうした?」 川仁の言葉に、涼音の身体が僅かに怯んだ。 言わずもがな、あいつとは、クロネコのことだ。 クロネコは現世に肉体を持たない存在。 怨霊、神、鬼、死霊そのどれもの言葉がクロネコには当て嵌まる。 どれに当たるかは当人の心持ち次第。 そして他者の視方次第。 「……もう、去ってしまわれました」 元より、縋ってはならない者だと理解している。 涼音は早良親王のもので良かったが、早良親王は涼音のものでは無いのだ。   (えっ……?) 高貴で清涼な香りが鼻腔を擽る。 涼者は、ふんわりと温かい懐に包まれていた。 「牛頭栴檀(ごずせんだん)はね、心を癒す沈香なんだ。香袋を持っていればお渡しできたのだけどね」 ゴンッ! 「ったぁ(痛)……」 後ろから川仁に殴られた弓削は、涼音の足元に崩折れた。 「軽々しく女人に何をしているお前は……」 「何って、やましい気持ちなんてほんの少しだよ?」 両手を肩幅当たりにまで広げる。 「ほんの少しなら普通は指先で示すものだ」 「えっ!?無理でしょっ。普通は多分にあるものだよ?」 頭の痛い言葉の応酬に川仁は額を押さえる他ない。 「くっふふふ」 吹き出したのは涼音だった。 きっと、励まそうとする二人か らの真心なのだと受け止める。 「ありがとうございます。薫君、川仁さまも」 お陰で肩の力が抜けていた。 「お礼に今宵の前座は確と務め上げてみせます」  涼音は扇を広げて舞台に大輪の花を咲かせてみせる。 月の下で舞う白拍子は鬼の片面を填めているが故に、一層に神秘的であり、また甚く妖艶であった。  左大臣のご満悦な面差しに流し目を送って応えれば、御簾の奥の姫君らから悲鳴のような歓声が上がったとは言うまでも無い。
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