赤い糸

19/24
前へ
/37ページ
次へ
 夜毎、悪夢で蝕んでも涼音は糸を掴まない。  今宵こそはと思いながら、水盆に溜め込んだ穢れは既に溢れ出るところまで来ていた。  王旭の鈍色の眼に映るのは、穢れに誘われて黄泉から招かれた邪鬼と呼ばれる小鬼の姿。 これら小鬼らは現世(うつしよ)の災いの種だ。 流行り病や凶作を引き起こす。 王旭はそれらを結界内に閉じ込め、更に機が熟すのを待った。 やがて共喰いを始めた小鬼らから餓鬼が育つ。 『ひもじぃなぁあ。贄をっ……贄を寄こせぇえ』  結界を紐解き、夢路に繋げば、餓鬼らは競って涼音の御霊を喰いに襲いかかるだろう。餓鬼どもが御霊を喰えば、涼音の肉体が現世(うつしよ)との橋渡しとなり、それら小鬼らは涼音の胎を喰い破って溢れ出る手筈。 その筈だったのだ。 (ふふふっ。さぁ、娘よ今宵はどう抗ってみせる?) 「我は願う。平安の治世を揺るがせ、贄はその娘よ」 王旭が祈願すると、一体の餓鬼が水盆の縁を掴んだ。 「なっ!!!何っ!?」 その巨体を如何(いか)にしてか、涼音の御霊に向かわずに這い出て来る。 (で、出られる筈が……) 力弱き邪鬼ならともかく、餓鬼が現世(うつしよ)に契約なしに出て来れる筈が無い。 更には、そのあまりの大きさに王旭は慄き、二、三歩後退る。 見上げるほどの巨体に育った餓鬼。 裂けた口には納まらないのか、赤い舌をデロリと垂れ下げたまま口を利く。 『(ぬし)よ、久しいよなぁ』 ニタリと、厭らしく嗤う。  餓鬼は右目に掛る前髪を、まるで見せつけるように掻き揚げた。 (!!!) 餓鬼に右の眼球は無い。 『我のをやると約束したろう?』 王旭の鈍色の眼を指差す。 (や、約束……?)  それはかつて、片目を失った折に高熱に浮かされていた時だ。そんな意識の朦朧とする最中のことだった。  この声を聴いたことがあった気がした。 『恨まぬのか?』 ただ虚しい。それだけだった。 「ああ」 恨むなどと言うことさえも面倒なほどに、ただ虚しい。 『死を望むのか?』 「いいや」 不思議とそれは、絶望と言う心地とはまた違う種類のものだった。 ならば『生きたいのか?』と聞かれれば、それともまた違ったようにも思うのだが、『死にたいか?』と聞かれれば、それは(いな)だった。 嫌と言う感情でもなく、ただ違ったのだ。 『生きたい』も、『死にたい』もそれはある種のだ。  この時の王旭に、望むものは何も無かった。 『ふふふふっ。(ぬし)なのだな。面白い』 『(ぬし)に力を貸してやろう。我の眼だ。お前の見るものがどんな世界か見るも一興』 言うや片目を押し込まれ、闇に堕ちる意識の最中、餓鬼の声が最後に響いた。 『(ぬし)が心して望む者に出会う時、我がそれを対価に喰らおうぞ』 餓鬼の(かざ)す手に、時の記憶を遡らされていたと知る。 「望む者……だと?」 『夜毎望んでいた。そうであろう?』 『あれを我が喰らえば、(ぬし)は如何とするかなぁ?』 下卑た笑みを見せながら、餓鬼は立ち消えた。  束の間唖然としていたが、我に返えった王旭は、すぐさま涼音の夢路を水盆に映し出し、中を慌てて覗き込む。  夢路に次々と下る邪鬼や餓鬼ども。 それらに対峙する凛然たる舞姫の姿がそこにある。 その潔いまでの姿勢に、どこか安堵している奇妙な己の心持に王旭は呆れた。 (今更、馬鹿げたことだ……(けしか)けているのは他でもなく我ぞ?) 「あれはどの道、贄でしかない。所詮は夢、幻に過ぎぬ想いよ」 見納めとばかりに王旭は己の舞姫を名残惜しんだ。  水盆を這い出た先程の餓鬼、それが最も肥えた餓鬼だったとは、王旭は気付いていない。王旭の想いを糧に肥えた餓鬼だとは知る由も無く、己の心に蓋をした。
/37ページ

最初のコメントを投稿しよう!

34人が本棚に入れています
本棚に追加