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夜毎、悪夢で蝕んでも涼音は糸を掴まない。
今宵こそはと思いながら、水盆に溜め込んだ穢れは既に溢れ出るところまで来ていた。
王旭の鈍色の眼に映るのは、穢れに誘われて黄泉から招かれた邪鬼と呼ばれる小鬼の姿。
これら小鬼らは現世の災いの種だ。
流行り病や凶作を引き起こす。
王旭はそれらを結界内に閉じ込め、更に機が熟すのを待った。
やがて共喰いを始めた小鬼らから餓鬼が育つ。
『ひもじぃなぁあ。贄をっ……贄を寄こせぇえ』
結界を紐解き、夢路に繋げば、餓鬼らは競って涼音の御霊を喰いに襲いかかるだろう。餓鬼どもが御霊を喰えば、涼音の肉体が現世との橋渡しとなり、それら小鬼らは涼音の胎を喰い破って溢れ出る手筈。
その筈だったのだ。
(ふふふっ。さぁ、娘よ今宵はどう抗ってみせる?)
「我は願う。平安の治世を揺るがせ、贄はその娘よ」
王旭が祈願すると、一体の餓鬼が水盆の縁を掴んだ。
「なっ!!!何っ!?」
その巨体を如何にしてか、涼音の御霊に向かわずに這い出て来る。
(で、出られる筈が……)
力弱き邪鬼ならともかく、餓鬼が現世に契約なしに出て来れる筈が無い。
更には、そのあまりの大きさに王旭は慄き、二、三歩後退る。
見上げるほどの巨体に育った餓鬼。
裂けた口には納まらないのか、赤い舌をデロリと垂れ下げたまま口を利く。
『主よ、久しいよなぁ』
ニタリと、厭らしく嗤う。
餓鬼は右目に掛る前髪を、まるで見せつけるように掻き揚げた。
(!!!)
餓鬼に右の眼球は無い。
『我のをやると約束したろう?』
王旭の鈍色の眼を指差す。
(や、約束……?)
それはかつて、片目を失った折に高熱に浮かされていた時だ。そんな意識の朦朧とする最中のことだった。
この声を聴いたことがあった気がした。
『恨まぬのか?』
ただ虚しい。それだけだった。
「ああ」
恨むなどと言うことさえも面倒なほどに、ただ虚しい。
『死を望むのか?』
「いいや」
不思議とそれは、絶望と言う心地とはまた違う種類のものだった。
ならば『生きたいのか?』と聞かれれば、それともまた違ったようにも思うのだが、『死にたいか?』と聞かれれば、それは否だった。
嫌と言う感情でもなく、ただ違ったのだ。
『生きたい』も、『死にたい』もそれはある種の望みだ。
この時の王旭に、望むものは何も無かった。
『ふふふふっ。主は無なのだな。面白い』
『主に力を貸してやろう。我の眼だ。お前の見るものがどんな世界か見るも一興』
言うや片目を押し込まれ、闇に堕ちる意識の最中、餓鬼の声が最後に響いた。
『主が心して望む者に出会う時、我がそれを対価に喰らおうぞ』
餓鬼の翳す手に、時の記憶を遡らされていたと知る。
「望む者……だと?」
『夜毎望んでいた。そうであろう?』
『あれを我が喰らえば、主は如何とするかなぁ?』
下卑た笑みを見せながら、餓鬼は立ち消えた。
束の間唖然としていたが、我に返えった王旭は、すぐさま涼音の夢路を水盆に映し出し、中を慌てて覗き込む。
夢路に次々と下る邪鬼や餓鬼ども。
それらに対峙する凛然たる舞姫の姿がそこにある。
その潔いまでの姿勢に、どこか安堵している奇妙な己の心持に王旭は呆れた。
(今更、馬鹿げたことだ……嗾けているのは他でもなく我ぞ?)
「あれはどの道、贄でしかない。所詮は夢、幻に過ぎぬ想いよ」
見納めとばかりに王旭は己の舞姫を名残惜しんだ。
水盆を這い出た先程の餓鬼、それが最も肥えた餓鬼だったとは、王旭は気付いていない。王旭の想いを糧に肥えた餓鬼だとは知る由も無く、己の心に蓋をした。
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