赤い糸

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(このままでは不味いな……)    不浄の血の匂いに誘われて、邪鬼がそこかしこに顕れ始めた。  真言を口ずさみながら、弓削は幾重にも結界の金鎖を施していく。呪詛は涼音を媒介にしている故に、外に広げない為にも室内に結界を張り巡らせ、内に封じるしかなかった。でなければ、邪鬼は疫病を撒き散らすことになる。 「川仁、薙ぎ払え」 川仁は『鬼切丸』の刀身を半身まで鞘から抜いて、一拍身構えた。一拍の内に神気を己の内に溜め込む。 『()っ!!!』 居合抜きは正に刹那の一振り。空気を切り裂き、不浄を薙ぎ払う。邪鬼らは瞬く間に消え失せた。 (まったく……。これが陰陽の『いろは』を知らずして出来るのだから恐れ入る) 弓削は頼もしい限りの友に目を細めた。 「……チッ」 だが、祓えたのは一瞬。再び血の煙に撒かれてしまう。川仁は同じ要領で二振り、今度は連続で切り返したが、結果は同じ事。 「話しが違わないか?夢の中だけではないぞ?」 川仁が眉根を寄せて褥に眠る涼音を見遣る。それにこれだけの騒ぎに目覚めない。否、目覚められずにいると言った方がきっと正しい。 「涼殿の御霊が取り込まれれば、およそこれの比じゃないな」 「術者を叩かねば切りが無いぞ」 「それが何処にいるか分れば苦労はないよ。涼殿の夢枕に立てばあるいは……」 「よせ、こちらもそれどころじゃないだろう」 結界を張りながら霊体で涼音の身体に入る。 (そんな器用なことが果たして出来るかどうか……) それに、ここを川仁だけで制するのは難しい。彦左も含め、三人の身体を護ってとなると、自刃(じじん)に等しい。 『邪魔をするなっ……!』 耳奥に轟いたのは若い男の声音だった。しかし、襲いかかって来たのは老齢に差し掛かかった彦左。焦点の合わない目に操られていると知れる。誘われた夢で彦左はおそらく糸を掴んだのだろう。 『縛っ!』 弓削の言霊に動きが止まったところで、川仁が当て身を彦左に施す。 『切ッ!』 透かさず弓削は指印(しいん)を切り、彦左に繋がる糸を断ち切った。 「これは……あれと同じだね」 五条大橋の一件で、憐れな遊女の御霊を操っていた者と同じ(しゅ)。 『旨そうな……これは我の贄ぞ』 おどろおどろしい声に振り向けば、大きな腹の出た、骨と皮ばかりの醜悪な鬼が何処から来たのか、涼の枕元に座り込んでいた。先程の邪鬼らとは並外れて規格外。 「あれは餓鬼っ!?」 邪鬼を共喰いして育った餓鬼は、涼音など頭から胴体まで丸呑みできそうな程に大きい。  瘴気(しょうき)(まみ)れた呼気を吐き出し、だらしなくその口から垂れた(よだれ)が、涼音の枕元に垂れ落ちた。ジュゥと、まるで酸で溶けたように褥を焦がす。 『(ぬし)もさぞや欲しいよのぅ?』 その卑しい手を涼音に向かって伸ばした。 ((!!!)) 川仁が刀に手を掛けるが、間合いが僅かに足りない。 (くそっ……間に合わないっ!) 川仁は舌打った。 刹那、この危機的状況に大気が震えた。 「失せろや、この()茄子(なす)がぁっ!!!」 弓削が滅茶苦茶に神気を解き放つ。 正しい陰陽道などどこへやら、餓鬼も穢れも全て消し飛ばされ……、というより左大臣の邸宅の離れが半壊した。 「ばっ(莫迦がっ)……!!!や、遣り過ぎだろう」 最早、言ったところで遅い言葉だ。 それに、致し方なしという気持ちも多分にはあった。 「ん。陰陽頭(おんみょうがしら)泣いてしまうね」 川仁は深く、本当に深く嘆息して、『鬼切丸』を鞘に納めた。  この弓削真人(ゆげのまひと)と言う男、少々自制が効かないところがあった。だからこそ普段は穏やかな口調の優男を心掛けているのだ。 川仁などキレた弓削の前では余程常識人であると、陰陽頭と一部の人間は知っている。 「まだ終わっていないよ。川仁」 風穴の空いた庵をそのままに、弓削は印を結んで結界を再構築する。 「涼殿はまだ闘いの最中だ」 「やはり、お前も行くか?」 危険は承知で、そうと決めていた。 しかし、川仁に頷くつもりだった弓削は考えを改めた。 「いや、もう適任者が向かったようだよ」
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