四章 天狗の抜け穴

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 ステラは掴んでいた義圭の足を思い切り引っぱった。その瞬間、義圭はロープを握る手を離してしまう。二人は水面へと落ちていく。 義圭は浅い水面に全身を打ち付けてしまった。しかし、痛がっている暇はない。水面をイモリが這うように進んだ義圭は再びロープを握った。 ぎゅっと握ったその拳に猟銃のグリップが振り下ろされた。義圭は苦悶の表情を浮かべながら、そのまま手を水面に叩き落としてしまう。 その時、運悪くロープも滑り落ちてしまった。銀男は義圭を心配しつつ、車の中に予備のロープを取りに行く。 ステラは義圭の体を掴み、仰向けにした後に馬乗りになった。 ステラは義圭の顔面を殴りにかかる、その拳の威力は老婆のものとは思えないぐらいに苛烈で硬く強いものだった。 「よくも! よくも! あたしの子を! 悪い子! 悪い子! 悪い子!」 ステラは義圭が村に来る度に優しくしてくれた。そのステラにどうしてここまで殴られなければいけないのか。義圭は痛みと悲しみの涙を同時に流した。 「ステラさん…… どうして……」 口の中が血の味で広がる中、義圭が無意識に出した言葉だった。口の中の傷に水が入り激痛に苦しみながらの言葉である。 「息子を守るのは親の務めだよ!」 「もしかしてあの天狗は…… ステラさんの……」 「そうだよ! あたしの天狗攫いに遭った息子だよ! あたしも天狗攫いに遭って! 宮司に犯されて生まれたあたしの息子だよ!」 「ど、どう言うことなの……」 「あたしゃあねぇ! 元々はヨーロッパの『とある国』の出身なんだよ! その国は内戦で地獄だった! それから政府が崩壊して! 国を失って別の国が支配するようになった!」 ステラは欧州にかつて存在した『とある国』の生まれである。ギリシャ神話を国教とし、ラテン語を公用語とする旧き良き国とかつては呼ばれていた。 だが、多民族国家であった故に内戦が勃発し、瞬く間に崩壊の一途を辿った。覇権を取った民族は他国からの軍隊を受け入れ独裁体制を築き上げた。 それ以外の民族にとっての地獄の始まりである。信仰する神の変更を強制され、言葉は奪われ、新聞や漫画(カートゥーン)や教科書の文字も別の国の文字になった。 若い女は皆、民族浄化で軍人に犯され…… 逆らう者は皆「粛清」と称してマシンガンで蜂の巣にされた。ステラは地獄のような少女時代を過ごしたのである。 衝撃の告白に義圭は何を言えばいいのか分からなかった。今はただ血錆の味を飲み込むことしか出来ない。ステラは続けた。 「今言ったことはねぇ! あたしがまだ十代(ティーン)の頃の話だよ! 日本人でこんな国の救済活動をやってる役人に助けてもらって日本に移り住んだんだよ! その役人が旦那さ!」
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