一章 天狗の仕業

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 天狗の無慈悲な刃がその喉元に食らいつく直前、義圭は目を覚ました。 クーラーの設定温度が25℃にしてあるにも関わらず全身は汗でびっしょり、寝間着にしていた下着も汗で透けて肌が見えるぐらいに濡れていた。 義圭はハァハァと荒い息遣いをしながら、布団より立ち上がった。 枕元に置いた時計代わりのスマートフォンを起動すると、時計は昼の12時を過ぎており「しまった、寝すぎてしまった」と、自分の大寝坊に気がついた。いくら夏休みの何もない日とは言え、昼過ぎまで寝ているのは怒られてしまう。それに今日は父が迎えに来る日、こんな日に大寝坊なんて何をしているんだと考えながら普段着に着替え、慌てて居間に向かった。 「ごめんなさい! 寝坊しちゃいました!」 義圭は叫びながら居間に飛び込んだのだが、そこには誰もいなかった。 「あれ、おかしいな?」と思いながら部屋の隅を見ると、見慣れた鞄が置かれていた。義圭の父がいつも旅行の際に持っていく鞄であった。 つまり、義圭の父はもうこの家に来ているということである。 「お父さん、来てるのか」 家のどこかにいるだろうと思い、家の中を探し回るが、家の中には義圭以外誰もいない。 僕一人置いてどこか食べに行ったのかな? 薄情な奴らだ。義圭は舌打ちをしながら不機嫌そうに居間に置かれたちゃぶ台の前であぐらをかいた。ちゃぶ台の上には何も置かれていなかった。 「ったく…… おにぎりぐらい置いとけよなー」 義圭は腹を空かしながら、三人の帰りを待った。空きっ腹でイライラしているところに引き戸がガラガラと引かれる音が聞こえてきた。玄関の引き戸が開く音を聞いて義圭は軽快な足取りで玄関の前に走った。 「ちょっとー? 皆どこ行ってたのー? いくら寝坊したからって、僕一人置いていくなんて酷いよー」 義圭は文句を言うが、それを聞くものは誰もいない。志津香も義圭の父も沈んだ暗い顔をしていた。その後ろには群青色の制服を纏った警察官が一人。 「あ、あれ? どうして警察の人と一緒なの?」 玄関にいたのは三人だった。義圭は激しい違和感を覚えた。 「あれ? お姉ちゃんは?」 志津香は顔を俯き、沈んだ顔をしていた。義圭の父は志津香の肩をぽんぽんと叩いて慰めにかかる。それから、義圭の両肩に手を乗せて目線を合わせた。 その眼差しはいつもの父とは違う真剣なものであった。 「義圭、よく聞け。紗弥加ちゃんな…… 今朝からずっといないんだよ」 「え? 昨日の夜に僕の部屋に来て、一緒に寝てたけど」 それを聞いて警察官が前に出た。 「それ、何時ぐらいかわかるかね?」 義圭は宙を眺めて考えた。あの時は時計こそ見ていなかったが、深夜であることは間違いない。 「時間は分からないけど、とにかく夜としか」 「そうか、君がいつも起きる時間はどうだったね?」 義圭の起床時間は朝の七時である。だが、今回は寝入りが深かったのか、その時間に起きることはなかった。 「ついさっき起きたばっかりなんで……」 「そうか……」 実のある情報を得られることが出来ず、警察官始め三人は落胆した。 志津香はよろよろと歩きながら居間に向かい、黒電話をちゃぶ台の上に乗せた。そして、その前にちょこんと座った。それはとても力ない姿であった。 義圭がそんな力ない志津香の姿を見たのは、これまでで始めてのことである。 「娘さんからお電話の方かかって来たら、駐在所の方までお電話下さい」 「はい……」 志津香は蚊の鳴くような声で警察官に対して返答した。警察官は秦家から去っていった。 それから義圭の父は義圭に向かって手招きをした。 「いいか? 志津香おばちゃんが落ち着くまで、お父さんとここにいてくれ。母さんには連絡してあるから」 「それはいいけど……」と、言いながら義圭はコクリと頷いた。 「お父さん、ちょっと志津香おばちゃんとお話するから、その辺で遊んでなさい。あまり遠くにはいくなよ? なるべく人がいる場所にいるんだ」 義圭の父がこう言った瞬間に義圭の腹がぐーと鳴った。腹時計の音を聞いた義圭の父は財布から1000円札を出した。 「志津香おばちゃんがあの調子じゃ飯も作れない。ステラさんとこでパンでも買うか、定食屋にでも行ってきなさい」
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