一章 天狗の仕業

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 義圭はタクシーの窓際で頬杖をつき風光明媚な山々と、天駆米がまだ金の稲穂を成らす前の緑成す絨毯も同然の田を眺めていた。すると、義圭の父親が呼びかけてくる。 「義圭」 「なぁに?」 「お前の友達、ケンちゃんに桜ちゃんだったな? 乗らないといけない電車の時間まではまだある。その子らの家に寄って軽く挨拶ぐらいしたらどうだ?」 「別にいいよ」と、義圭。その声は力ない。 「そうか」 「お父さん、さっき伯母さんが気になること言ってたけど」 「ん?」 「お母さん、この村に来たくないとかって言ってたけど……」 「あ、ああ…… お母さんは、かれこれ12年はこの村に帰ってないな」 「お爺ちゃんにお婆ちゃんも亡くなってるから?」 「それもあるけどな」 「それもって何? 他に何かあるの? 実の姉の志津香おばちゃんに会わないってのもなにか変だよ」 「なんだ、お母さんに聞いてないのか。あいつ、説明してなかったのか……」 「毎年お父さんがこの村への僕の送り迎えするよね? お母さんとこの村に一緒に来た覚えがないって、お母さんと話したんだけど、適当にはぐらかされちゃった」 義圭の父はしばし黙り込んだ。タクシーから電車に乗り換えても、その沈黙は続いた。沈黙が終わったのは携帯電話の電波も復活し、風光明媚な山々の風景が終わり、車窓から東京のビル群が見えるぐらいになった時であった。 「今から言うことはお母さんに言うんじゃないぞ。俺も口止めされてるからな」 「え?」 「今から12年前な、お父さんとお母さんは村で結婚式を挙げたんだ」 「知ってるよ。アルバムに写真貼ってあった」 「式の後な、お母さん、天狗攫いに遭ったんだよ」 「何それ…… ってことは戻ってきたってこと?」 「結婚式を挙げた夜のうちにフッと消えてしまったんだ。村の皆で探したさ。そして、数週間後にフッと戻ってきたんだ」 「その間、何があったか聞かなかったの?」 「聞いたけど『覚えてない』の一点張りだ。そして、もう村には何があっても行かないって約束させられたよ。どうしても村に一緒に行くと言うなら離婚しますとまで言われてしまった」 「ふーん……」 自分の母親が天狗攫いの被害者だったことを聞かされても、義圭はあまり思うことはない。「ああ、そうだったの」と言った淡白な感想しか持つことしか出来なかった。 「大人も時々天狗攫いに遭うんだけどな、大人の場合はすぐに戻ってくるもんなんだよ」 「大人も天狗攫いに遭うの?」 「紗弥加ちゃんだって15歳だ。十分大人だろう?」 「そりゃそうだけど……」 「だから、今回もすぐに戻ってくると思ったんだけどな…… お母さんだって23歳の時だったんだ」 「年齢差こそあるけど……」 「だからな、紗弥加ちゃんが帰ってくることをお前も祈ってやってくれな?」 「うん」 義圭は力なく頷いた。義圭の父の中には自らの妻が天狗攫いに遭った時のようにすぐに帰ってくるだろうと言う楽観的な考えがどこかにあった。 姪っ子が天狗攫いに遭い、妻も天狗攫いに遭っているのに、息子を義圭を一人にしたり、捜索隊に参加させていたのは『村』の人間ではないからこその甘い考えに他ならなかった。実際のところ、義圭の父親の中に天狗信仰は皆無。天狗攫いの正体も「迷子」や「遭難」ぐらいにしか考えていなかった。  それから数週間が経ち、秋が深くなり始めた。義圭は家の電話の前で紗弥加の帰還報告の電話を毎日待っていたのだが、電話が鳴ることはなかった。義圭から電話をかけても出るのは憔悴しきり、疲れたような声で対応する志津香であった。 兼一や桜貝とは手紙でのやり取りをしているのだが、やっぱり話題は紗弥加のことであった。紗弥加がいなくなってから複式学級のクラスメイト達も子供なりに一生懸命探しているのだが、やはり梨の礫でどうしようもないとのことであった。
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