ニ章 天狗様

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 雨翔村に三時の(チャイム)が鳴った。村全体に響き渡る放送が寝床で泣き疲れた義圭の耳に入り、それによって目を覚ました。 義圭は涙で腫れぼったい目を擦りながら洗面台の前に立った。 義圭の目は赤く腫れ上がり、ぐしゃぐしゃになっており、無精髭を蓄えた草臥れた顔を見て思わず指をさしてしまう。 「うわ、ヒデェ顔」 義圭は顔を洗い、無精髭を剃った。すっかり古びた未使用の女性用眉剃り用剃刀は慣れない使い心地ではあったが、何とか無精髭で見苦しい顎の逆さの黒山を不毛の荒野にすることが出来た。 「帰り支度でもするか……」 義圭は荷物を纏めだした。この家の管理のことが引っかかったが、どうせ神棚封じが終わる時に戻ってくるし、まぁいいかと考えた。 しかし、義圭は神棚封じの解除は村の誰かに言伝(ことづ)てしておけばいいと考えていた。神棚の半紙を剥がすだけなら、うちの親族がやるまでもないかと思うのであった。 義圭は二度とこの雨翔村には戻ることはないと心に硬く誓っていた。  義圭は電車の時刻表を見た。今からすぐに帰ったとしても、東京の家に到着()くのはどうあがいても深夜の天辺(てっぺん)(0時)を過ぎてしまう。苦労して疲れて帰るぐらいなら明日の朝でいいかと思い、帰京予定を明日の朝一番にしようと決めた。 「暇だな……」 暇を持て余していた義圭は、勉強の遅れを取り戻すために卓袱台の上に乗せた参考書と問題集に向き合っていた。涙を流した上に明日帰ると決めて気が楽になったおかげか、以前よりは勉強に集中出来るようになっていた。 義圭は卓袱台の上に乗せた問題集をスラスラと解いていく、三十分が経過したところで裏山にて木の伐採が始まったのか耳を劈く轟音が耳に入るようになってきた。 「うるせぇな、チェーンソー」 雨翔村の主要産業の内の一つ、林業。それ故にこの村では木の伐採が絶え間なく行われ、チェーンソーの音も蝉時雨や蟋蟀の歌の伴奏と呼べるぐらいに鳴り響いている。この家の真裏(まうら)は杉林が鬱蒼とした山故に、日が沈むまでは、この村の山のいずれかではチェーンソーのモーター音が常に鳴り響いている状態となっていた。 これでは勉強に集中出来ない。静かな場所を求めて義圭は家を出ることにした。 とは言え、この村で静かな場所はどこにあるのだろうか? こうした山間ではチェーンソーの轟音故に静かな場所と言うものは期待出来ない。義圭は村の中央に向かうことにした。 「さすがに喫茶店じゃ迷惑か」 つい最近出来たばかりの喫茶店が目に入った。客こそまばらであるものの、何時間もテーブルを占拠するわけにはいかない。それにカウンターに座っているのが兼一の母であったために入ることを躊躇われた。 この喫茶店、兼一の母が経営する喫茶店である。兼一の家は農家だが、農業関係の仕事は全て夫に任せきり。兼一の母が農業を手伝うのは稲刈りの時ぐらいである。 義圭がしばらく畦道を歩いていると、先程も訪れた民俗資料館の前に辿りついた。 ここは図書館も兼ねていることを思い出した義圭は、そこで勉強をすることに決めた。
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