ニ章 天狗様

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 その日の深夜、一台の赤い軽自動車が天狗神社に程近い閉鎖された道の突き当りに停車していた。その道にある防犯カメラの死角に入る場所にライトを点灯(つけ)たまま、車から降りた者は帽子を目深に被り、更にフードを上から被り顔が見えないようにまで徹底して自分の身を隠した。 その車の持ち主、安里はトランクから黒のラッカースプレーを出し、振った。カラカラカラと言った音が辺りに響く、スプレー缶中に入った玉がラッカーをよく混ぜ均一の色となる。更に防犯カメラの四角に入り、真黒な真円を描くカメラに向かって噴射した。 真黒なカメラのレンズは黒いスプレーを噴射され視界を完全に失った。 「これで万事オッケー」 安里は車のトランクからポリバケツを出した。ポリバケツにはウッドチップ工場で分けて貰ったおが屑が敷き詰められている。安里はそれを持って注連縄(しめなわ)の下を潜り、天狗神社の私有地に無断で入ったのである。 深夜の森は何やら訳のわからない音や声ばかりで不気味だ。ほーほーと鳴くフクロウの声、草葉の影にいるのか姿を現さないのにゲコゲコと鳴く種類の分からない蛙、蟋蟀だか螽斯だかと思われる飛蝗系統の虫の鳴き声、僅かな風で揺れる樹々のざわめき、少し進んだ先に見える崖の下にある渓流の水音、これらが混じり合っての環境音は不気味なものであると安里は感じていた。 両手に持ったポリバケツ、その蓋には懐中電灯がガムテープで固定されていた。言わば、両手持ちの照明である。石ころや草や木の葉や枝の敷き詰められた森の地面は非常に不安定だ、何時何時(いつなんとき)滑落して滑り落ちるか分からない。せめて前方の視界だけでも確保しておこうと思い、手作りの照明を作ったのだった。 「あっ!」 森の地面の土は湿っており、ちょっとした斜面でも滑落の危険性が高い。安里は軽く足を滑らせるがポリバケツを地面に叩きつけて踏ん張ることで耐えた。奥歯を噛み締め、全身に力を入れながら体幹を立て直す。 歩を進めれば足音がする。小枝が踏み砕ける音、葉っぱを踏み擦れる音、この音を聞く者は森の動物以外にいない。だが、今回はそれ以外の「何者か」がその音を聞いていた。「何者か」は自分の棲家(テリトリー)であるこの山に侵入者が入ったことを察し、武器を持ち、侵入者の排除に乗り出した。 安里は歩みを進め大きなクヌギの木を見つけた。かつて、義圭が三年前に大量の甲虫を手に入れた木である。彼女はポリバケツの蓋から懐中電灯を外し、クヌギの木を照らした。樹齢は数百年を越えようかと言う大樹に懐中電灯の光を舐め回すように満遍なく照らす、その光は木の根元あたりにある(うろ)を照らした。その光の中には大量の甲虫が集会でも開いているのか、樹液での晩餐会でも開いているのか、夥しい数が集まっていた。それを見て安里は口端をニヤリと上げた。 「蜜あげなくても凄いじゃない」 その甲虫の集まりには当然オオクワガタもいた。照らされた光の中にいるだけでも十匹以上はいるだろうか。よりどりみどり、黒金剛石(ブラックダイヤ)のつかみ取り大会の開催である。安里はオオクワガタをポリバケツの中に放り込んだ、カブトムシやミヤマクワガタやオオクワガタには目もくれない。平均して、7センチから8センチ…… 大きいものは10センチを超える規格外のオオクワガタもいた。当初は自らの研究のための捕獲だったが、黒金剛石(ブラックダイヤ)のつかみ取りで彼女の心に欲が芽生えた、大学で飼育するのは小さいものだけにして、後はブリーダーに売ってしまおうと本気で考えていた。 金にした後はドンペリやリシャールでホストを傅せ、その後はオキニのホストと一緒にハワイに行って…… 車も今年のモデルを買ったばかりだが、すぐに売り捌き外車に買い替えてしまおうなどと言った宝くじを買った直後の高額当選した後の妄想をしながら、ひょいひょいとオオクワガタをポリバケツの中に放り込んでいく…… この妄想が彼女の最後の楽しみであった……
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