ニ章 天狗様

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 安里は妄想に浸っている上に目の前のオオクワガタを掴み取りしているために背後の足音に気が付かない。実体もなく近寄る巨影に気が付かないぐらいに彼女は夢中であったからである。大きな影故に森を踏みしだく足音も大きなものなのだが、その足音は彼女の耳には入らない。  巨影は安里の背後に立った。それでも彼女は気づかない。無防備な彼女の背中に巨影は刃を振りかぶり、刃に命を吹き込んだ。命を吹き込まれた刃は轟音と共に無慈悲に振り下ろされた。  安里の背中にこれまで経験したことの無いような激しい痛みが走る。その一刃は彼女の肩から背中の肉を引き裂き、血を吹き出させ、右肩の骨と右の肩甲骨を削り砕いた。彼女は転げ落ちる、その転げ落ちた体にオオクワガタが大量に詰め込まれたポリバケツにぶつかり、ポリバケツは横になった、その衝撃でオオクワガタは拡散するように広がり飛び去った。 彼女にとってそんなことはどうでも良い。何故にこんな痛い目に遭わなければいけないのかと言うことの方が気になっていた。激しい痛みが襲う中、安里は這うように振り向いた、懐中電灯に照らされたものは「天狗」であった。真っ赤な顔に、高い鼻、蓄えられて真白で縮れた白い髭、服装は修験者装束、この雨翔村に来てから散々見た石像の姿そのままの天狗であった。  天狗は鷹のような鋭い目で安里を睨みつけた。痛みに苦しみ、血と泥に塗れた彼女に無慈悲なもう一撃を加える。今度は左側頭部に刃が振り下ろされた、髪を巻き込み、頭皮を削るような痛みが彼女に与えられる、これまでに無い程の断末魔の悲鳴を上げるが、それを聞くものは誰もいない、いや、虫たちは足や腹に付いた耳でそれを聞いていた。彼女の頭皮から飛沫を上げて出る血の匂いにおびき寄せられて様々な羽蟲が集まってきた、「血」を吸う目的で集まったわけではない、「水分」を吸う目的で集まってきたのである。 安里は切られた左側頭部を左手で押さえた。激しい痛みが走るがそれでも押さえずにはいられなかった。このままショック死に至ってもおかしくないのだが、不幸中の幸いか、奇跡か、まだ命はあった。彼女が考えること、それは…… 「逃げる」のみである。クヌギの木に身を寄せて彼女は立ち上がった。全身から夥しい出血をしたまま足を引きずり、転び、起き上がりを繰り返して僅かに見える自分の車のライトに向かって進み続けた、口の中は血の味と泥の味が混じり合いおかしなことになっている、鼻腔にもその血が登ってきてるのか血の香りしかしない、その道中の道なき道では血の匂いに引き寄せられてか虫が寄ってくる、頭から流れる血を吸おうと暗闇で種類の分からぬ甲虫や羽虫が顔に張り付いてくる。 「うああっ! うああーっ! うああ! いや!」 安里は空いている右手で顔に迫りくる虫たちを払う。大学では昆虫の研究をしているために、どんな昆虫であろうと触るのは抵抗がない。 ゴキブリやムカデやヤスデを手の上で這わせることすらも朝飯前の彼女でさえも、頭から流れる血を吸いにくる虫たちは不快感と嫌悪感を覚えるのであった。 半死半生、這々の体でけもの道を進む安里。光は大きくなっている、現状ではもうどうしようもないのだが、彼女は光を求めていた。この状態では運転もままならないのだが、彼女は車に乗ってこの場から逃げるつもりであった。血が流れ意識も朦朧とする中、考えることは「助けて欲しい!」であった。無我夢中で前に出たことで彼女は道路を封鎖する注連縄(しめなわ)を掴んだ、車まではもうすぐだ! 彼女は安堵し、力なく注連縄(しめなわ)を掴み持ち上げ潜ろうとした。 その刹那、止めの無慈悲な刃が彼女の身を更に切り裂き、削り砕いた。 それが致命傷となり、安里は力尽きた。大量出血での全身の血が抜けていくような緩やかな死ではなく、無慈悲な刃による出血性ショック死である。 想像を絶する激しい痛みに苦しんだ末の無慈悲な死であった。 天狗はそのまま彼女の足を掴み、森の奥へと消えた。
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