三章 天狗攫い

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シャン! 義圭はその音を聞き、思わず反射的に獣道の方に走り出した。 何なんだあいつは…… 兼一はその後を追いかけた。 全力で錫杖の音を追いかける義圭、山歩きには似つかわしくないスニーカーでのハンデをものともしない勢いで走り続けた。鳥は外敵の接近に慌てて飛んで逃げ出し、虫たちも波が引くように義圭に踏まれないように慌ててその場から逃げ出しにかかる。 木の葉や枝を踏みしめる音が辺りに響く。森の奥であるせいか、木々の間から差し込んでいた木漏れ日も徐々に徐々に少なくなり暗く深い森の奥へと進んでいるのが義圭にはよく分かる。 走りながらも耳を傾ければ、川の水の流れる音が聞こえる。すると、地面は獣道すらも途切れ、急斜面へと姿を変えた。 「うあっ!」 義圭は急斜面で止まりきれず、走ったまま斜面を駆け抜けてしまった。 兼一は途中で急斜面になっていることに気が付き、慌てて足を止めた。斜面前の縁で義圭を見失ったことに気が付き、義圭の名前を叫ぶ。 「よっちゃーん! よっちゃーん! どこだーっ!」 森の奥で大声を上げることは外敵を招き入れる為に命取り、言わば自殺行為である。熊や野犬がいるとされるこの森でそんなことはしてはならないと、雨翔村の子供達は大人よりこう教えられる。それにも関わらずに大声を上げたのは義圭の身を案じてのことであった。 「よっちゃーん! どこいったーっ!」 しばらくして木霊が返ってくる。 「よっちゃーん! どこいったーっ!」 ちきしょう。呼子は仕事しなくていいからよっちゃんの返事をくれよ! 兼一は苦々しく奥歯を噛み締めて悔しさを露わにした。 その瞬間、回りの茂みがガサゴソと動き出した。 ああ、斜面の下に行ったわけじゃなかったのか、兼一は安堵し胸を撫で下ろした。しかし、その期待は粉微塵に打ち砕かれた。 茂みから出てきたのは、犬種の分からない犬であった。肋骨が浮き上がり、足も兼一が今護身用に持っている木の枝よりも細い。目つきも鋭く、犬歯をむき出しにし、下顎からは牛を思わせる涎をダラァリポタポタと垂らしていた。 狂犬病の可能性がある野犬である。誰かが捨てた犬というわけではなく、土着の野生の犬に該当する。 兼一は野犬に向かって枝を構えた。野犬は虎視眈々と兼一の喉笛に食らいつこうと、じわりじわりと側対歩で足を動かし近づいていた。兼一はゆっくりと踵を返し、後ろ向きのまま後退し、ぶんぶんと木の枝を振った。その瞬間、更に絶望的な状況に陥っていることに気がついた。 先程の野犬以外にも別の野犬達が右から左から現れ鶴翼の陣で包囲されつつあった。数にして6匹…… 兼一は今すぐにでも斜面を駆け下り、義圭を助けに行きたいのだが、その斜面に降りる道は既に野犬に塞がれている。 前門の野犬、後門の…… 後ろに広がるのは広大な森、絶対に後で助けに行くからな! そう硬く心に誓った兼一は元来た道を戻り、走り行くのであった。野犬達もそれを追いかける。
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