たった一つのおまじない

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 枯れた紫苑の花を中央に、チョークで正円を描く。  等間隔になるように、柊の葉を一枚、椿の花弁を二枚。更に榎の樹皮を一枚、楸の葉を二枚。  仕上げに自身の血を紫苑に数滴垂らせば、準備は終了。後は拾い上げた紫苑を抱いて、円の中で正座をするだけ。  これで、おまじないは完成だ。  何度も何度も確かめた手順を再度確認し、彼女はそっと正円に入った。側の蝋燭が揺らめき、室内の影を弄ぶ。息を吐き、恐る恐る紫苑を手に取って、彼女は腰を下ろした。まだ流れ続ける血が、紫苑の茎を赤く染める。  大丈夫。これできっと、助かる。  そう言い聞かせながら、再び息を細く吐く。脚にめり込んだ小石が痛い。取り除いておけば良かったと思いながら、彼女は目蓋を落とす。  眼前は黒に沈み、外の雨音が耳に触るようになる。がしかし、唐突に世界から音が消え。  固く握る紫苑が――なくなった、気がした。 「……っ」  目を開く。  どうしてだか視界がチカチカと光り、白に占領される。やがて、斑に、だが確かにそれは色鮮やかに置き換えられていった。  目を奪ったのは、毒々しい赤色の葉。空が見えない程密集した木々は、辺り一帯に影を落としている。しかしながら、雪に似た色の名も知らない小花が発光し、明るさをもたらしていた。  何処からか吹いた風が、彼女の頬を撫ぜる。冷たく、秋風の様なれど、夏の様に蒸した空気がのし掛かってきた。  初めて訪れた場所のはずなのに、何度も来たことのあるような安心感と気持ち悪さ。そんな、不可思議で不快に塗れた森。  立ち上がろうとして、彼女は止まった。ひび割れた冷えたコンクリートから草の茂る土へと移っていた地面には、正円も柊も椿も何もかもが消えている。  これは、やはり。 「成功……したのかな」  ぽつりと呟く。  手の紫苑も、同じように消えている。〈願いが叶うおまじない〉は成功したのだ。しかし、これはどういう事なのだろうか。こんな、あまりにも怪しげで気味が悪い森に居るだなんて。  今度こそ立ち上がり、彼女は辺りを眺める。  此処だけは広場かのようにぽっかりとひらけて――否、正円があった場所を木々が避けるかのようになっている。風で葉が擦れ、嫌な笑い声をあげていた。  強い、土の臭いがする。  正円の広場は木々と草むら、蔓草で壁が作られていて、殆どが円外に出る事は叶わない。しかしながら、正面の道だけが――道と言えるかも分からない程だが、そこならば円外に出られそうである。  固く、手を握る。深呼吸をし、彼女は意を決して草木に身を滑り込ませた。  チクチクとした感触が頬や腕、脚に感じられる。目の前が一層暗くなり、不気味さが増した。それでも、一歩一歩、着実に歩を進める。  緑は徐々に間隔を緩め、完全な道を形成させていた。  最初はけもの道とさえ言えなかったものがけもの道となり、今は道となっている。最終的には街道にでもなるのではないかと思う程の変わりようだ。 「……ん」  一際強い風が吹き、辺り一帯をさらう。思わず彼女が目を閉じた先に、彼は居た。  燕尾服のようにも、執事服のようにも、はたまた全くもって別種の服にも見える黒衣を身に纏い、大きなシルクハットを被っている。彼は血にも似た二つの真紅を、彼女へと向けた。 「ようこそ、XXX」  久しく、呼ばれた事のない名前。  一瞬、それを自身の名前だと彼女は認識する事が出来なかった。それ程に、懐かしいもので。  僅かな間固まった後、彼女は口を開いた。 「……貴方は、誰? どうして私の名前を知っているの? それに此処は何処?」  尋ねる。  すると、彼はまるで、彼女が何を問うのか分かっていたかのように悩む事なく口を開いた。 「俺は人によって、悪魔とも天使とも神とさえも呼ばれる者。君の名前を知っている事については、俺にとってごく自然で常識的な事だ。君が気にする事はない」  木々のざわめきを背景に、彼は朗読を、あるいは歌に近しいリズムで答える。それから、彼は一歩、彼女に近付いた。 「そして、最後の質問。此処は、少しだけ現実から外れた場所。此処に在って、此処に無い場所。俺が住み、君が願って訪れた場所」  白手袋に包まれた指が、彼女に向けられる。  ――私が、願った。  そう彼女は呟く。確かめるかのように、転がすように、ゆっくりと。「……なら、貴方が私の願いを叶えてくれるのね」 「どうしてだ? 一言もそう入っていないはずだが」  彼女の確認に、肯定も否定もせずに彼は尋ねる。それに、彼女は間髪入れずに返した。 「貴方は今、〈悪魔とも天使とも神とさえも呼ばれる〉と言った。それは、そう言われるだけの力を持っているという事でしょう?」 「……だとしたら?」彼は続きを促す。すると、彼女は少し固まった後、「……正直」と再度口を開いた。 「正直、私は何だっていいの。私を遠くへ連れて行ってくれるのなら、何だって」  湿った風が彼女の長髪をさらう。  彼女の目が彼を真っ直ぐと貫いた。 「嫌とは言わせない。この命以外、何だってあげる」  それに、彼は僅かな間顔を伏せた後、「元より断るつもりはない」と背を向けた。 「ついてこい。きちんと〈遠く〉へ行かせてやるよ」  そう言って歩き出した彼を、彼女は慌てて追いかける。やがて、一分もしない内にそれは現れた。  眼前のそれに、彼女は思わず零す。「……おかしな木」  それは、巨大な樹だった。  赤々とした周囲の木とは違い、銀色の葉をつけた黒木。円周は両手を目一杯伸ばしても届かない程に太く、明らかに異質である事を漂わせていた。  そして、なによりも。  その樹の幹には、アンティーク調の時計盤が埋め込まれていた。否、正鵠を射るならば、埋め込まれていた、といった表現は適していないだろう。しかしながら、そうとしか表現出来ない。幹や枝に掛けられている訳ではないのは明白であったし、樹皮と時計盤の境が曖昧になる程に融合していたからだ。  それの前で彼は足を止め、口を開く。 「この樹の裏。この虚(うろ)に入れば、君の願いは叶う。だけど、その前に」  ぱちん、と彼は指を鳴らす。手袋をしていると言うのに、不思議な事に音が鳴っていた。否、もしかしたら指が鳴ったのではなく、別の何かの音が鳴った音かもしれないが。  音と同時に、空中に掌の半分程のサイズの硝子瓶が現れた。透明なそれは、少し動かすだけでオーロラのように色を変える。 「はい、これ」重力に従って彼の掌に落ちた瓶には、銀色の液体が入っていた。  彼に差し出されたそれを取り、彼女は眉を寄せる。「……何これ」如何にも怪しげな液体だ。水銀にも見え、警戒するなという方が難しい。 「記憶を無くす薬。飲んだら徐々に記憶が消えていく」  あっさりと彼は言う。  これを渡したという事は、恐らく。暗に飲めと言っているのであろう。彼女がその結論に至るには、さして時間は掛からなかった。 「それが代償って事ね。……これを飲んでから、中に入ればいいの?」  硝子瓶を揺らし、液体が波打つのを眺めながら彼女は確認する。見れば見るほど、毒にしか見えない。目を瞑らなければ、飲む気が流石に起きない程だ。 「話が早い。さぁ、どうぞ?」  彼に勧められ、意を決す。  彼女が硝子瓶の蓋を開けると、意外なことに花に近い甘い薫りが広がった。目を閉じ、一息にあおる。  どろりとした液体が喉を通る感覚。花のように感じていた薫りは、いつの間にか血のように鉄臭いものと変わっている。苦味が口内に広がり、彼女は顔を顰めた。  彼女の手から瓶が抜け落ち、草に転がった。  そのまま、幹の後ろへと回る。普通ならば自立することすら有り得ない、虚と言うよりも、巨大な穴。数メートル先も見ることが出来ない、真っ暗闇。  深淵、という単語が彼女の頭に浮かんだ。それを忘れる為に、頭を振る。  そして、後ろを見る事なく足を踏み入れた。  ――どぽん、と水中に入ったかのような感触。  歩いてみても、進んでいるのかも分からない。目を閉じても開いても、暗闇が広がっている。 「……!」  不意に、真横を何かが過ぎった。  何か、はどんどん増えていき、しかしながら速さは緩やかになっていく。暫くもすれば視認出来るようになっていた。  彼女が入った幹にあったような、アンティークの時計盤。それらが幾つも幾つも正面から現れ、後ろへと消えていく。  増加する一方であった時計盤は、唐突に勢いを止めた。停滞するそれらの中、伸ばせば届きそうな位置に、一つ、時計盤が残っている。  自然と、彼女は手を伸ばしていた。  ――気付けば、彼女は、駅のホームで並んでいた。  ブレザーにネクタイ、手には携帯。携帯には〈2019年11月6日〉と書かれている。電車の発着を報すアナウンスが鳴り響き、風が長髪をなびかせた。  停まった電車は音を立てて開く。  何人かが降り、彼女は慌てて横に避けた。そのまま、後ろの人々に押し込まれるように車内に乗り込んでいく。  手元の携帯が震え、メッセージを報せていた。 〈注文通り、遠くの場所だ〉  そして、それは数瞬で消える。
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