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まだ肌寒さの残る今日、今まさに千可の六年間が幕を閉じようとしていた。卒業式を終え、教室は他クラスの生徒もいるのだろう、アルバムに各々寄せ書きをする同級生の姿で溢れている。 昼間には大きな窓から差し込む光が白い教室の壁に明るく映える。 もっとも今、時計の針は5時を少し過ぎた辺りを指している。この時期夕方の5時を過ぎれば、外はもう真っ暗だ。郊外にあるこの学校は教室内の興奮と喧騒をよそに、すでに深々とした空気に包まれている。 もう見ることのない朝の教室、その清新な空気。そして蛍光灯の光がかえって寒々しい眼前の光景。同じ制服に身を包んだ同級生の輪の中で、千可は秘かに慣れ親しんだ空間に別れを告げていた。 一人感傷に浸りながら級友のアルバムに当たり障りのないコメントを書いて回っていると、教室の出入口から千可の名を呼ぶ声がした。顔を上げなくても分かる、文(あや)の声だ。所属していた美術部では文が部長、千可は副部長を務めていた。 何でも文は顧問に呼ばれたとかで千可に声を掛けに来たらしい。卒業式だというのに、引退したとはいえ部長は大変だなと千可は他人事のように思った。同級生の部員を集め顧問のいる美術準備室に向かうと、後輩の部員が集合していた。どうやら卒業を祝ってくれるらしい。 お手製の寄せ書きまで用意してくれた律儀な後輩達に感謝しながら、千可は昨年卒業して行った一つ上の学年のことを思い出していた。自分達の代はこんなに手の込んだことをしただろうかと。 気心の知れた仲間内で、教室の空々しさとは違い千可は素直に寂しさを認めることが出来た。絵の具と油、かすかに水の匂いの漂うこの空間を去りがたかった。ドアを出たら最後、制服を脱いだ千可をこの部屋が迎えてくれることはもう二度と無いのだ。 涙が目尻に一滴また一滴とにじむ。ぼやける視界の端に小さく手招きする顧問の姿を認めたのはその時だった。手渡されたのは、丁寧に梱包された四角い包み。余りにも手に馴染むその形、重さに中身は一目瞭然だった。 「先生、これは?」 「篠田さんが卒業する時に渡してくれって預かってたのよ」 「どなたからですか?」 「それは見たら分かると思う」 その曖昧な返答は、千可の関心を買うのに十分だった。郷愁は半ば吹き飛び、千可の心は三年前の冬に舞い戻っていた。今ではすっかり部員の憩いの場となっているが、準備室とは名ばかりのこの部屋を長年占拠していたのが麻田という先輩だった。 千可は一学年上のその人を下の名前で凜先輩と呼んでいた。どことなく近寄りがたい雰囲気の彼女をそう呼ぶのは千可だけだった。と言ってもそうなった経緯は全くの偶然だった。 中学三年の冬、千可はペインティングオイルの補充のために普段は近寄らない準備室のドアを恐る恐る開けた。手持ちのものが底を尽きかけていたのを忘れていたのだ。 足を踏み入れた美術準備室は手前と奥とをビニールのカーテンで仕切られていた。何か見てはいけないような気がして、目を背けるようにして千可は歩を進めた。というのも、そこにいるはずの麻田はほとんど部員の前に姿を現すことなく、クリムソンの怪人という異名を取っていたから。当然、顔もうろ覚えである。 怪人はともかく、クリムソンとはクリムソンレーキという深い赤色に由来している。麻田はほとんど人物画しか描かなかったが、その深い赤色が麻田の絵を特徴付けていた。 人の気配を感じて咄嗟にカーテンに視線を移すと、かすかに身動きするシルエットが映し出されていた。千可が通うこの女子校は冬は黒ストッキングの着用が義務付けられていた。暖房は効いているが、裾から覗いている剥き出しの白い足が寒々しい。 濃密な空気感が、安っぽいカーテンから漏れる橙色の光を伝って漂っている。 千可は目的の物を手に、そのシルエットに目を向けないようにして足早にその場を立ち去った。心拍が上がって、ドアが閉まる重い音に注意を払う余裕は無かった。 美術室も準備室も適温だったにも関わらず、汗が吹き出した。あのジメッとした夏の雨上がりのような空気感は何だったのだろう。 女子校とは言え、千可はそれまで世間が想像するような花園のようなイメージとは無縁の学校生活を送っていた。日の光の溢れる、白い壁に囲まれたこの平凡な校舎。その小さな一室の片隅に火傷するような異質さがひっそりと息づいていた。 下校時間が迫る中、片付けに手間取った千可は一人帰り支度を急いでいた。すでに日が落ちて、静謐な暗闇の中、窓から見えるテニスコートの照明だけが煌々としていた。ようやく美術室を出ようと預かっていた鍵を手に取った時、ゆっくりと伺うように隣の準備室のドアが開いた。 ふらりと姿を現したその人は千可の姿を認めて言った、「絵、見ない?」と。 その超然と浮世離れした雰囲気にあてられ、千可はほとんど無意識に頷いていた。
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