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凜に最後に会ったのは卒業式を1週間後に控えた3月のまだ真冬の肌寒さが残る日だった。結局最後まで凜はこの小さなアトリエを引き払うことは無かった。 「私が卒業したら、この部屋使いたい?」 千可はためらいなく首を横に振った。ここは千可にとって凜だけが許された場所だった。 「そう、残念」 そう言った凜の横顔が一瞬寂しそうに見えたのは気のせいだっただろうか。 卒業式の前日、下校時間ぎりぎりに千可は秘かに美術準備室を訪ねた。部屋の明かりが消えていたが、いつも通り鍵は開いていた。こんな不用心が問題にならないのも、安全に守られたこの狭い学校だからこそだろう。 明日は卒業だと言うのに、呆れる程全てがそのままだった。だが申し訳程度に床にまとめられた画材が現実を物語っている。 ここに足を踏み入れるのは数日ぶりだった。というのも、千可はこの隠れ家のような空間が消えていく過程を見たくはなかったから。 床から目を背けるように千可は視線を上げた。 数枚のキャンバスを移動させて、千可は完成した絵を壁に架けた。明日、この部屋の扉を開けた凜の目に一番にとまるように。 卒業式で名前が呼ばれた時、凜の姿はそこに無かった。在校生席から遠目に見ても分かる。紺色のセーラー服の背中が整然と並ぶ中に、一つだけパイプ椅子の緑色の張地が鮮やかに主張している。これだけで何かしらのアートに見えてしまうのも凜の存在感ゆえなのだろう。 ここにいないのなら恐らくは美術準備室にいるのだろうと千可は思った。最後まで凜は凜だった。 千可は美術準備室のドアノブに手をかけた。いつものようにキャンバスに向かう凜の姿があってほしいという現実味のない願望半分、あの空間の変わり様を見届けようという気持ち半分で。 徐々に開く扉の隙間から、いつもと変わらない匂いが鼻腔をくすぐる。絵の具と油と水の匂い。 けれどそこには何も無かった。 壁を埋め尽くすキャンバスも、使い込まれたイーゼルも、古ぼけた丸いすも、色とりどりの絵の具が飛んだビニールのカーテンも。 そしてキャンバスを見つめる神秘的な瞳も。凜の存在自体が幻だったかのように全て消えてしまった。 ただ千可の描いた凜の横顔だけを壁に残して。 思えば千可が凜と接したのはこの部屋だけだった。連絡先すら知らない。そんなことが出来たのは、ここが紛れもなく壁に囲まれた小さな温室だったからだろう。 「あなたも来たの」 背後で静かにドアが開いて聞き覚えのある声がした。 「凜先輩、卒業式いませんでしたね」 「最後までブレなかったね」 「これあなたが描いたの」 千可は黙って頷いた。 「私もあなたに描いてもらえば良かった」 「私は凜先輩みたいには描けません」 「あの、栞先輩。これ貰ってくれませんか」 そう言って千可は紙袋に入れて持っていたあの裸体画を差し出した。苦労して修復したのを凜にも見せたかった。 「卒業、おめでとうございます」 それからの一年は風のように過ぎ去った。千可達二年生は引退し、まっさらなキャンバスのように何も知らない新入生達が代わりに入部した。 美術準備室は美術部の部室となり、凜のいた痕跡は壁に架かった千可の描いた絵を残すのみだ。 そして今日、千可の穏やかで単調な六年間も幕を閉じる。 すっかり制服の馴染んだ中学一年生の部員が遠慮がちに声をかけてきた。 「あの、クリムソンの怪人なのに赤くないんですね」 「静脈の色、だよ」 千可はうっすらと青い血管の浮いた自分の手首をセーラー服の袖口から覗かせて見せた。 下から見上げると、優しい青にうっすらと赤が浮かんで見える。この絵をまじまじと眺めるのは久しぶりだ。群青色の瞳が発する強い眼差し、その冷気を纏った鋭利な刃物のような凄み。 「でも楽しそうに見えます、何となく」 先程とは別の下級生が小さくそう言った。彼女は凜の存在を知る一人だった。絵を描いている時の精神を研ぎ澄ました凜の表情は、美しく高貴でそして何より楽しげだった。 部員達の輪から一人離れて、千可は顧問に渡された包みを解いた。徐々にキャンバスの赤褐色が覗いていく。懐かしいこの色を千可はついに作り出すことが出来なかった。サインの無いその絵の送り主はもう分かりきっていた。その小さなキャンバスをそっと胸に抱くと、心臓の鼓動が聴こえるようだった。やがてその音は千可の心音と一つに溶け合った。
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