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見たこともないような色彩、繊細でいて内面を抉り出したかのような大胆な筆遣い、カーテンの奥はまさに異世界だった。ふと千可は布を掛けられて、イーゼルに置かれた一枚のキャンバスに目を向けた。それに気付いて、その人は無造作に布を取り払った。 先程ちらりと視界を横切った白い足。千可が目を背けたシルエットが仄かに背景から浮いて見える。 両脚を抱えて座る、美しい裸体。白さの際立つ肌に、ほのかに浮いた赤が色っぽい。色素の薄い長い髪が背中から腰にかけてつる草のように覆っていた。 頬を太腿にくっ付けて、こちらをじっと見つめる左目、陰になった右目の光がかすかに覗いている。 「それ好き?」 「あ、はい。…何だかぞくぞくします」 「そう。私も好き」 舐めるように絵を眺めてから、初めてその人は千可を正面から見据えた。 「あーごめん。何さんだっけ?」 「篠田です。篠田千可、中三の美術部員です」 「なんだ、私のこと分かる?」 「…高一の先輩の、」 「麻田凜、怪人改め」 存在感のあるくっきりとした目を細めた彼女の笑みは、中学から今まで存在を認識していなかったのが疑われるほど、人懐っこく印象的に映った。 その後下校時間がとっくに過ぎた頃に、見回りにやって来た教師が呆れて二人を外に放り出したのは言うまでもない。 それ以後千可は凜の隠れ家をたまに覗くようになった。基本的に凜が嫌な顔をすることはなかったが、彼女がモデルを前に描いている最中、カーテンが閉まっている間は遠慮するのが暗黙のルールだった。 彼女の描く人物画に一枚として同じ顔は無かった。 モデルの誰かと美術準備室で出くわすことが無くなった代わりに、校内で見覚えがあると思った人の大半は凜の絵の中の人物だった。 そんな時千可は決まって居心地の悪さを覚えた。 ある時、凜は千可がこのところよく描いている風景画を眺めながらこう言った。 「人は描かないの」 「何となく怖くて。麻田先輩みたいに上手くないですし」 「凜でいいよ。怖いって?」 千可は答えられず黙りこくった。 凜は手元の千可の絵を基点にぐるりと周囲の自分の絵を見回した。その目は夜空の星を眺めるように遠くを見ていた。 「こんなの多かれ少なかれエゴなんだよ。それを晒すのが怖いなら止めたほうがいい」 太古の予言者のような風格に千可はふと逆らいたくなった。 「…私は先輩を描きたい」 「へぇ、」 千可は半ば当て付けのように口走った、自分の無謀な一言に狼狽えていた。凜は一瞬物珍しそうに千可を見つめ、「出来るものなら」と挑発的に笑った。 「変わってる。皆私に描いて欲しいって言うのに」 「先輩は、どうして描くんですか」 「抗えないから、かな」 「暴きたいのかもしれない」 「そう言う割には愛を感じますけど」 「みんな愛してるから」 凜は平然と言ってからこう嘯いた。 「描いてる間はね」 漆黒の瞳が砂漠の夜を照らす月のようにミステリアスに煌めいた。そこに意思的な眉がエキゾチックな趣を添えている。 「一回描いたら、もう…?」 凜は顔色を変えずに頷いた。 「私は一枚に全てを閉じ込める」 近付いたと思わせて、絶対に越えさせない一線。だが千可はそれをあえて越えたいとは思わなかった。その隔たりを詰めようとすることは乱暴、もっと言えば野蛮な行為にすら思えたから。 ただ凜の謎めいたどこか高貴な美しさをそのまま眺めていたかった。
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