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学年が上がった後、九月の文化祭を前に作品制作は追い込みの時期に入っていた。 部員達が準備に追われる中でも、凜は我関せず引きこもって絵筆を握っていた。唯一凜と交流のあった千可は当然連絡係を命じられ、伝書鳩のように壁一枚隔てた部屋と部屋とを行き来していた。 自分が特別な存在だと優越感に浸るには、千可はあまりにも忙しかった。 美術部は毎年文化祭では美術室を割り当てられていた。そしてその小さくない一角を毎年凜の作品が占めていたが、圧倒的な実力差に文句を言う者は一人としていなかった。 だが美術部は高校二年の三学期で引退するのが通例だ。目の前の景色は最後かもしれないと千可は胸を締め付けられた。 その日も、展示プランを凜に伝えるため千可は美術準備室の扉を開けた。 「先輩、引退したらここはどうするんですか」 「暫くは不法占拠させてもらおうかな」 「だからさ次期副部長さん頼りにしてるよ」 ポンと千可の肩を叩いて、飄々と凜は去って行った。魔法のように絵筆を操る彼女の手が一瞬千可の肩に触れる。 千可は肩の熱をふるい落とすように、準備室の白い壁を見回した。壁の肌が見える程ここが空っぽになるのは一年のうち文化祭の時期だけだった。 胸を撫で下ろしたのも束の間、永遠に続くように思われたこの日常の儚さを千可は悟った。人工的な穏やかさに満ちたこの温室、その中でただ一つ気温も湿度も独特な小さな部屋の片隅。 千可も、そして凜も、この校舎で学ぶ者は皆、白い壁の中を滞留している風に過ぎなかった。時が来れば開け放たれた窓の外へ出ていくしかない。 文化祭当日、展示で賑わう美術室とは対照的に、隣の準備室はいつもとそう変わらぬ空気が流れていた。 例によって伝言のために準備室を訪れると、珍しく凜は不在だった。 千可は普段凜が座っている丸椅子に腰かけて、空っぽのイーゼルを見つめた。木の骨組みの先にあの裸体が見えるようだった。 こうも胸が高鳴るのは、凜の目線に目線を重ねているからなのか、その先に確かにあった裸体に欲情しているからなのか、あるいはその両方なのか千可には分からなかった。 ふいにカーテンがレールを走る音がして、凜が顔を覗かせた。 「暇してる?」 「先輩に言われたくありません」 「確かに」 クツクツと小さく笑って、凜はふと思い付いたように言った。 「あれはさすがに展示出来なかったよ」 あれ、と凜が見やったほうには、確かに一枚だけキャンバスがポツンと乾燥棚に取り残されていた。思い当たるのは例の一枚だけだ。 「モデルの人がこの学校にいるからですか」 「そう。って知り合い?」 「いえ、前にここで…」 「あぁ見た?」 千可が目を泳がせて曖昧に頷くと、凜は「別に悪いことしてるわけじゃないんだから」と苦笑した。 「私を描くんでしょ、そんなんじゃ完成する前に卒業しちゃうよ」 「先輩はコンクールに出そうとか思わないんですか、あんなに上手いのに」 話題を変えたくてそう問うと、凜はさも当然といったふうに「評価されたくて描いてるわけじゃないし、例え評価された所で雑味が混ざるだけだから」と答えた。 率直なのに嫌味の無い、凜の不思議な口調が千可は好きだった。 「言ったでしょ、これはエゴだって」 凜は目を伏せて、傍らのヴィーナスの鼻梁をカーディガンの裾から覗かせた指先でなぞった。 「おつかい行ってきてよ」という後輩思いとはとても言えない言葉に素直に従ったのも、ひとえに千可がこの自由人の先輩を慕っていたからに他ならない。 この部屋にいかにもそぐわないソースと青のりの匂いを漂わせて千可が戻ってくると、カーテンは閉じられていた。夏の雨上がりの湿っぽい空気が匂い立つ。 凜から預かった小銭はポケットの中でまだ軽く踊っていた。千可は不思議とその場から立ち去ることが出来なかった。窓を開けたのだろう、時折風がカーテンを揺らしている。 突如、ふわりと突風がカーテンの裾を翻した。 風に揺れる、凜よりも膝上のスカート、長袖の白いセーラー服、結んでいないウェーブのかかった長い髪。 重なった二つの輪郭が日に透けて溶け合ったかのようだった。 「あ、千可おかえりー」 ソースの匂いを嗅ぎ分けたのか、凜はそう言って千可の方を向いた。能天気な声とは裏腹に、彼女は助けを求めるような視線を送って寄越した。それを無視するわけにもいかず、白いセーラー服の彼女はすれ違いざま千可を睨むようにして走り去って行った。 「…今のってあの絵の」 「絵完成したからもう来んなって言ったらごねられてさ。それで絵ならあげるからって言ったらキスされた」 「助かったー」という呟きはあまりに薄情だ。 「先輩って控えめに言って、」 「…クズ?」 何てことないとでも言うように凜はあっけらかんと笑った。 「こういうこと前もあったんですか」 「何回か」 一切悪びれない凜を見ていると、千可は次第に責める気が失せてきた。千可が呆れて深いため息をつくと、凜はふいに瞳を陰らせた。 「私、人を好きになるってよく分からないんだよね。絵を通してしか誰かに執着出来ない」 凜が珍しく覗かせた自嘲の色は、千可の脳裏に不安の染みを作った。 「…他の人の絵はともかく、先輩は自画像は描いたら駄目ですよ」 「そう?」 「何となくですけど」 「みんな自分だけを描いてって言うのに。やっぱり千可は変わってる」 「先輩に言われたくない」という言葉を呑み込んで、千可は代わりに少し冷めかかったたこ焼きを差し出した。今まさに楊枝に伸びているのと同じ手が、人の内面の混沌を巧みに描き出すのを幾度も見てきた。 けれども彼女の隠された深い孤独は誰が見つけてくれるのだろう。そう思って千可はこの時秘かに凜の絵を描こうと、もう一度心に決めた。 文化祭は例年通りの盛り上がりを見せ、隠れた名物のようになった凜の展示にも最後かもしれないと多くのファンが詰めかけた。 まだ幼さを残した中学一年生が緊張した面持ちで眺めているかと思いきや、卒業生とおぼしき数人が絵に見いっているなんて光景は珍しくも無かった。 凜の絵のモデルが誰かということは文化祭におけるトピックの一つであった。そしてどうやら絵のモデルになったということは校内においてステータスですらあったようだ。 絵の才能はもちろん、それだけの人を惹き付ける存在感が凜にはあった。 文化祭が終わると、校内は祭りの後といった静かな様相を呈していた。後夜祭でグラウンドに皆出払い、校内に残っているのは凜のような変わり者と、そんな変わり者を探しに来た千可くらいだと思われた。 当然、美術準備室に引きこもっているだろうと思ってドアを開けると、薄暗い部屋に人の気配がした。 「凜先輩?明かりも付けないで何してるんですか?」 ガリッと固い布地を引き裂くような音と明かりが付いたのとは同時だった。 「ちょっ、何してるんですか!」 凜とキスしていた髪の長い上級生、彼女の左手には例のキャンバスが、そして右手にはカッターが握られていた。 彼女は涙を湛えたその目で千可を見た。 「…私が、私が描いてって言ったの。展示出来なくてもいいからって…」 それから彼女は「だから」やら「だけど」やら「なのに」を繰り返ししゃくりあげた。抜け落ちた言葉が涙と共に白い頬を伝っていくように思われた。 「と、とりあえず落ち着きましょう。カッター危ないので渡してもらえますか」 意外にも素直にカッターを手放した彼女は両手でキャンバスを抱き締めている。裏からでも、キャンバスの真ん中が大きく切り裂かれているのが伺えた。 「服が汚れちゃいますよ、髪も」 ほとんど乾いているとはいえ、油絵の具は一度付くと落とすのに骨が折れる。白い制服に付いたりなどしたら大変だ。 何とか彼女の腕からキャンバスを抜き取ると、案の定袖口に微妙に色が移っていた。幸いにもまだ乾いていない。 こうなれば時間との勝負である。大急ぎで自分の作業用つなぎをロッカーから引っ張り出した。所々絵の具が飛んで、油の匂いが否めないがこの際仕方がない。 「絵の具、乾くと落ちなくなるんで、とりあえずこれに着替えてもらっていいですか。汚くて申し訳ないですけど」 袖口の絵の具を筆洗油で大まかに落とし石鹸水で念入りに洗う。幸運にも汚れは綺麗に落ちた。なぜか美術室に常備してあるドライヤーで乾かせば完成だ。 達成感で一杯になっている千可の隣に作業着姿の彼女がやって来た。 「…あの、ありがとう」 「どういたしまして。あ、髪にも付いてる」 長い髪に付いた絵の具をティッシュで拭う。絵の中の彼女も綺麗だったが、間近で見る彼女はもっと幼く見えた。 「…すいません、私あの絵見ちゃったんです」 「え、ええ恥ずかしすぎる…」 「いやほんとごめんなさい…。でも本当に綺麗だと思いました」 「それは凜の絵が上手いから…」 「先輩は確かに技術もすごいですけど、ちゃんとその人のこと見えてる気がします」 千可は無惨な姿のキャンバスを手に、注意深く裂け目の断面を彼女に見せた。絵の具が幾層にも重ねられて厚みが出来ている。 「…すごい、断層になってる」 「凜先輩は確かにあんな人ですけど、絵を描いてる時だけは信じていいと思うんです。本当にあんな人ですけど」 「…この絵、あいつが捨てようとしたらあなたが貰って」 そう言い残して彼女は着替えに戻った。そしてもう美術準備室には姿を現さなかった。 何度も色を重ねて削って、そうやって油絵は出来上がっていく。表面に見える色、目を凝らせば見える色、全体を見ないと気付かない色、それらの下で一見見えない色だっていくつもある。凜はそういう人の深い部分まで見透かして、キャンバスに再現してしまう。 凜の表面にナイフを入れて、色とりどりの断層を見ることが出来たならと千可は思わずにいられなかった。
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