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「…ねーあんな人って何回言った?」 のそりと背後から突然現れた気配に千可は飛び上がった。 「…!いたなら隠れてないで出てきて下さいよ…」 凜は千可の手元を覗き込んだ。咄嗟に隠そうとしたができる訳もなかった。絵の惨状を見て、凜は静かにキャンバスの木枠を握る手を震わせていた。 千可はこの目に余る所業を許すことは出来なかったが、一方で凜の自業自得にも思われた。 黙っている千可をどう思ったのか凜は断固とした口調で言った。 「捨てる」 「…私の知ってる先輩はそんな事する人じゃないです」 千可は低い声でそう言った。千可にとって凜の描く絵は簡単に捨てられていい代物ではなかった。例え無惨に切り裂かれていても。例え凜本人の意思であっても。 「なんでそんな事言うんですか…」 「なんでって、これはもう私の絵じゃないから」 「描いたのは先輩だし、サインだって…」 こんな自明のことをあえて言ったのは、凜の言葉の意味を測りかねたからだ。 「栞はね、勝手に手を加えたの私の絵に。これは、もう私の作品じゃない」 この時初めて千可は犯人の彼女の名前が「栞」というのを知った。 どうやら凜にとっては、絵を台無しにされたという以上に他人が自分の作品に手を入れたという事のほうが問題らしかった。 「…分かりました。でも捨てるなら、代わりに先輩を描かせて下さい」 凜は憮然として眉をひそめた。千可自身、変な交換条件だと思ったがここは引き下がれない。 「先輩の絵のファンとして当然です」 そう息巻く千可を見て、凜は少し表情を緩めた。 後日、千可のロッカーにはその絵が"捨てられて"いた。 それからカーテンが開いている日は、千可はキャンバスに向かう凜の横顔を描き続けた。カーテンが閉まっている日、千可は胸の奥がチクリと痛んだ。そんな自分が意外だった。 千可が傍らにいても凜が絵筆を動かす速度は特段変わらない。 それでも集中が切れた時には、そんなに見られては丸裸にされているようだと彼女はこぼした。 全神経を集中させて絵筆を握っている時の凜の青白い顔には複雑で多彩な表情が浮かんでは消えた。 千可は凜のそういう秘められた豊かさを描きたかった。 「いっそのこと脱ごうか」 ニヤリと唇の端を歪めた凜の表情は、東洋の神のごとく悪戯でどこか神秘的だった。 女子校に通う者なら誰でも同性の裸など見慣れている。それなのに目を白黒させて慌てる千可を凜はさも面白そうに眺めていた。 「別に絵のモデルするってだけじゃない」 「…先輩は私のこと知らないから」 千可はそう呟いて、鉛筆を握り直してデッサンに集中しているふりをした。
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