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そうこうしているうちに季節は移り変わり、高校二年生の引退の日を迎えた。その日凜の姿は珍しく美術準備室にはなかった。上級生との別れを惜しみながらも、千可は秘かに美術室と準備室の間のドアを気にしていた。ドア窓に明かりが灯るのを待ったが、凜はついぞ現れなかった。凜の気配だけが残る部屋は、脱け殻のようだった。
他の上級生が姿を見せなくなっても、以前言っていたとおり凜は相変わらず美術準備室でキャンバスに向かっていた。今でもモデルを前に人物画を書いている。さすがに懲りたのかヌードは控えているようだが。そして千可もまた相変わらず凜の横を陣取っていた。
「引退の日、先輩もいれば良かったのに」
「和を乱すだけだし、」と言いかけた凜は何か言いたげな千可の顔を見て、冗談めかして言い直した。
「しばらくは怪人続けるって言ったでしょ」
凜の言う"しばらく"が一体いつまでなのか千可には検討もつかなかった。それは明日かもしれないと思い続ける日々、ぼんやりとしたタイムリミットが焦燥感を掻き立てた。
絵は完全に行き詰まっていた。赤みがかったキャンバスに囲まれ、無意識に凜の画風に引き寄せられていたのかもしれない。
だが赤を操る当の本人に、なぜか赤はそぐわないように思われた。キャンバスの中の血色のいい凜はどことなく居心地が悪そうだ。
「先輩はどうして赤を使うんですか」
「血の色だから」
事も無げに言う凜の顔に、唇だけが妖しげに仄めいていた。
「さすがクリムソンの怪人、」と千可が冗談めかして言った途端、凜は深い夜色の目を不機嫌そうに歪めた。
「私をどう描いてもいい。だけどその呼び名はやめて」
凜は「クリムソンの怪人」という本人の預かり知らぬ所で独り歩きする二つ名とともに、望まないものまで背負わざるを得なかったのではないか。千可にはそうおもえてならなかった。
千可が赤みがかった自分のキャンバスに再び色を重ね始めたのは、それからすぐの事だった。
描き進めるうち、千可は人物画を避けてきた訳を自覚せずにはいられなかった。絵筆を握る千可の手を突き動かしたのは、「この人が欲しい」という強烈な欲望だけだった。解き放つことが出来るのはキャンバスの前だけだ。窮屈さが激流のような衝動に拍車をかけた。
「先輩の言ってた意味が分かったんです」
凜は絵筆を動かす手を止めて、千可の方を見た。
「…私にとって絵はカモフラージュなんです」
千可は自嘲気味にそう話し始めた。
千可にとって、絵を描くのは恋をするのによく似ていた。むしろ同じだった。何かを強く求め、独占したいという乱暴な衝動。絵は秘めたものを表現する唯一の手段だった。芸術という外面を借りれば、そういう衝動を抑え込む必要は無かった。
いつからだろう人物画を避けるようになったのは、大好きな絵を冒涜しているように思えたからだった。
千可は壁一面をキャンバスが覆うこの部屋をぐるりと見回した。
「ずっとこの人達が羨ましかったんです、こんな風に描いて貰えて」
「…千可の絵は描かないから」
珍しく凜の言葉は歯切れが悪かった。
「私だってこの中の一枚になるのはご免です。なのに今、先輩の絵を描きながら私はあなたを自分のものにしたいと思ってる…」
「全部エゴです」
「醜いね、お互い」
そう言って笑みを浮かべた凜の表情は、言葉とは裏腹に透き通るようだった。彼女はそれ以上あえて聞こうとはしなかった。
その後、千可は凜の隣で絵を描くのをやめた。暇を見つけては美術準備室を覗いてはいたが、描きかけの絵を凜に見せることは無かった。
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