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序 ほおずき市
ほおずきが鮮やかに出店に並び、人々が賑やかに行き交う。
年に一度、江戸浅草で開かれるほおずき市。無数の体温と雨上がりで蒸した空の下、少女が一人、往来の中心を泣きじゃくりながら歩いていく。
まっすぐに切り揃えられた綺麗な黒髪が時折濡れた頬をかすめる。いいところの娘なのだろう、薄桃の品のいい振袖は、誰とも触れ合わぬ。
誰も小さく哀れな少女に声を掛ける者はおらぬ。すれ違う人々は、ほんの少しの冷ややかな風が通りすぎたと思っているのやもしれない。
「父上、母上」
切なげにしゃくりあげながら、少女は一人、往来をふらふら、ふわふわとさまよう。
ふいに、真っ白な子犬が、少女の足にじゃれついた。
「あなたも迷子なの……?」
しゃがみこむ少女に、つぶらな目をした子犬は尻尾を振る。少女が優しく頭をなでてやると、子犬は気持ちよさそうに目を細めた。
「あの子ね。ちゃんと送ってあげなくては」
小夜(さよ)は、しっとりとつぶやく。
今回送る相手はまだ幼い、八つほどの少女。けれど、よくあること。ありふれすぎること。
同情を寄せる気など、少しもない。人は冷たいと思うのだろうか。まだ小さいのにと、涙を流すものなのだろうか。
小夜には分からなかった。だって、小夜にとって『送る』ということは、人にとって安楽だと思っているから。
小夜は、緋色の唇に優美な微笑みをたたえて、ゆっくりと少女のもとへ向かう。
昼なのに手に提灯をたずさえ、まっすぐ彼女だけを見据えて歩く小夜に、誰も一瞥もくれない。小夜もまた、人々の群れを臆することなく進んでいく。
小夜がよけなくとも、人が自然とはけるのだ。不躾に進んでいく小夜にも、彼らの笑みは少しも変わらないのだった。
「迷子のお嬢さん」
小夜は少女に近づくとにっこりと微笑んだ。彼女は不思議そうな顔をして、こちらを見上げている。白い子犬も、足元で尻尾を振った。
「泣かなくても大丈夫よ。悲しいことなど、もう何もないのだから」
小夜はまだ濡れている少女の頬を袖で拭った。
「お姉ちゃんは、誰?」
「私は小夜。鬼灯(ほおずき)一族よ」
「ほおずき……?」
少女はきょとんとして、目をしばたかせる。
「お姉ちゃん……お姫さまみたいね」
子どもとは時々、予想もしないことを口にするものだ。小夜は首の後ろでゆるく髪を結わえているが、頬にかかる髪を切り揃えているためかもしれない。
髪を上げた江戸の町娘とは違うかもしれなかった。小夜は優しく笑む。
「そう見える?」
「うん。とってもきれい」
「ありがとう。……私はあなたを迎えに来たのよ。さぁあなたのゆくべき場所へ、案内してあげる」
小夜は提灯にふっと息を吹きかけた。すると青白い炎が揺らぎ、同時に辺りの喧騒は煙のように歪んでやがてかき消えた。
子犬の姿も見えなくなった。ここにはもう、小夜と幼い少女しかいない。当然だ。死んだ者にしか来られぬ場所なのだから。
急に薄暗く変わった風景に、少女はぎゅっと小夜の足にしがみついていた。提灯のほのかな浅藍が薄闇をじんわりと照らしていた。
「大丈夫。何もこわいことはないわ」
「本当? 父上と母上に会える?」
「そうね。きっといつか会えると思うわ。あなたのご両親もいずれ、この道を通るかもしれない」
名も知らぬ少女は、少しためらったものの、何かを悟ったかのように、こくりとうなずいた。
そう、何も恐れることはないのだ。あの世へと続くこの道は苦しみも悲しみもない、ただまっすぐに伸びる平坦な道だ。
道の果てまで、小夜は死者の供をする。その先が地獄へ続いているのか、それとも極楽か。小夜には分からないが。
鬼灯一族である小夜の役目は、死んだことに気付かずさまよう人々を、あの世まで送り届けること。それだけだ。
同情や哀れみ、悲しみや痛みなど、小夜には必要なかった。現世などよりも、生きるよりもずっと、死のほうが安楽だ。
小夜は少女の小さな手を握ると歩き出す。手首に巻いた鈴が小さくちりんと鳴った。
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