三、鬼同心の涙

2/3
62人が本棚に入れています
本棚に追加
/24ページ
自分には兄がいたらしい。江戸で鬼同心として名を馳せている谷野圭介という男。本名を朔という。 浅葱に駆け寄る彼のことを遠くから見ていたが、何も思い出さなかった。ずいぶんと会っていないせいだろうか。 思い出そうとしても、もう何も浮かんではこない。 『鬼灯とは、死者を黄泉へと送り届ける明かり。人の世を追われた一族は、その役目を負うことになったのです』 薄闇の中目を閉じると、穏やかな声が小夜の中で響いた。騒がしかった心が静まっていく。 (この声は、兄の声……?) 『ですが、一族の姫であるあなたには、ふさわしくありませぬ』 突然違う言葉が発せられ、小夜ははっと目を開ける。 ここには小夜以外には誰もない。現世とあの世を繋ぐ場所、境目。 同じ人物が発したはずの声なのに、ずいぶんとまとう空気が違っていた。初めて感じた不穏に、小夜が自らの肩を抱くと、なぐさめるように手首に下がる鈴が鳴った。 声は、男だということが最近分かるようになっていた。でも、本当に兄の声なのだろうか。浅葱に発していた声とは、少し違う気がする。 自分から記憶がないのは、思い出したくないからだ。とても不安になるのは、記憶が決してよいものではないからだ。 それでも、自分は思い出したがっている。 (私にも、大切なものがあったのなら。思い出さなければならないわ) 小夜があの世へ送り届けた人たちは、決して逃げなかった。自分の人生に真っ向から向き合い、受け入れて、旅立っていったのだ。どんなに辛くても、悲しくても。生きた証である記憶を抱いて、光の中へと消えていった。 現世は残酷で、ままならないことばかりなのに。ここにいれば嫌なことも苦しいこともないのに。彼らは自分の死に気付くと、現世を思うのだ。死を迎えてほっとしている人間でも、ふっきれたような、とてもいい顔をして、ぽつりぽつりと生きていたときのことを語り出す。 小夜には分からなかった。なぜ、人は生きたがるのか。もしも小夜に記憶が戻ったら、答えが見つかるかもしれない。 自分の兄かもしれない人に会ったら、記憶が戻るのだろうか……。時折響く、声の主のことも思い出せるかもしれない。 この手首の鈴のことも、分かるだろうか……。 小夜は意を決して顔を上げた。   大店の軒先から客を呼ぶ威勢のいい声が響く。天秤棒を担ぐ商人たちの掛け声も木枯らしに負けてはいない。小夜は活気あふれる江戸日本橋通りを通り抜けていく。 今日は鬼火の灯る提灯を持っていない。死者を迎えにきたわけではないからだ。小夜は、記憶にある中では初めて、役目以外で現世を歩いていた。 振袖姿で颯爽と歩く小夜の姿は、人通りが多くても目立っていた。手首に朱の組紐でまかれた鈴がかわいく鳴る。すれ違いざまに視線を投げて寄越す人も多かったが、気にせずに足を動かす。 やがて日本橋を抜けると、屋敷が建ち並ぶ閑静な場所に行きつく。八丁堀の同心屋敷だ。圭介に会いに来たのだった。だがいざ屋敷の前に立つと、らしくなく緊張してしまう小夜だった。 屋敷の前でうろうろと迷っていると、背後から声がかかる。 「娘、何か用か」 見知らぬ男だった。紋付羽織に十手を帯びていいるところを見ると、彼も同心なのだろう。小夜は迷っていたことを気取られないように、すまして言う。 「谷野圭介って人を訪ねてきたの。今いらっしゃるかしら」 男はまたか、とうんざりしたようにつぶやくと、犬を追いやるように手を振った。 「娘さん、悪いことは言わねえ。あの男に入れ込むのはやめときな。あいつは女にうつつを抜かすような男じゃねえよ。仕事以外には興味のない堅物だ。娘さんのような可憐な子には釣り合わねえ。……はぁ。愛想のかけらもない男なのに、どうして女が寄ってくるのかねえ」 男はやれやれという風に言うと、引き返そうとする。小夜は腰に手を当て、去っていこうとする男の背に言い放つ。 「勘違いしないで。私は谷野圭介って人にちゃんとした用があって来たの」 「な、なんと! 」 男は今にもひっくり返りそうなくらい、身をのけぞらせた。 「やや、あの男に真面目に用があって訪ねてくるとは……今日は槍でも降るのではないか」 男は本気で空を心配しだしたが、小夜のしらっとした視線に気づき、咳払いをしてごまかすと言う。 「谷野殿は今、日本橋通りの番所にいる。漆器屋の前だ。行けば会えるだろう」 また戻ることになりそうだが、会うまでに猶予ができ、小夜はいくらか緊張を解いた。 「そう。ありがとう」 小夜は物珍しそうにしている男を残し、再度賑やかな往来へと足を向かわたのだった。 日本橋通りは死者を迎えに何度か通っているが、小夜にとっては騒がしすぎてあまり好きではない。呉服屋、仏具屋、薬種問屋――多くの店がのれんをかかげているため、人の出入りも多い。団子売りや菓子売り、魚屋といった行商人だけではなく、駕籠や長持も行き交う。屋台も多く出ていた。 「ちょいとそこのお嬢さん」 声がかかり、小夜が目を遣ると、露店の男が人のよさげな笑みを浮かべていた。小間物屋らしい。化粧道具や装飾品が並んでいる。 「よかったら見て行かないかい?」 小夜は何ともなしに眺め、ふと目をとめた。 「あら、きれいな櫛ね」 「だろう? べっ甲の櫛さ。なかなか手に入らないものだよ」 「素敵だけれど、櫛ならもう持っているわ。失礼するわね」 店を離れた後、小夜ははたと足を止めて懐から櫛を取り出した。 店で売っていた物に負けないくらい、朱塗りの美しい櫛だ。いつから持っていたのかは分からないけれど、大切に懐に入れている。 「おっとごめんよ」 往来で立ち止まっていると、肩が人とぶつかる。直後、手から櫛が消えていた。取られてしまったのだ。 男が駆け去っていく。 「待ちなさい!」 小夜も追おうとしたが、その必要はなかった。スリの男の腕をひねり上げた人物がいたのだ。 「くっそ、離せ!」 「窃盗犯だ。番小屋へ連れて行け」 「承知」 紋付に袴、月代に髷を結った男が、傍らの若い男に命じた。 (あの人は……) 立ち尽くす小夜に、男は近づくと櫛を差し出した。 「不用心だ。高価なものなら肌身離さす持っておけ。それと往来の真ん中で立ち止まるな。迷惑だ」 不愛想に言い放つ男は、谷野圭介、その人だった。 「あなたは……本当に私の兄上なの?」 ただただ純粋に、まっすぐに放った問いに、圭介はしばし無言で小夜を見つめ返していた。 「小夜……なのか」 こくりとうなずく。 「浅葱さんから、話を聞いて。確かめに、会いに来たの」 「浅葱が……」 圭介は一度祈るように目を閉じた後で口を開く。 「よく無事でいてくれた」 かみしめるように彼は言う。仏頂面だった目尻が少し下がり、心なしか目が潤んで見えた。 その変わりように、妹を本当に思っているのだということは分かったが、記憶がない小夜にとってはあまりぴんとこなかった。 「実は私――」 記憶を失っていることを告げようとするが、圭介は制した。 「積もる話は屋敷で聞こう。そうだ、甘いものでも買ってやろうか。何か欲しいものはないか?」 「何もいらないわ」 子どもではないのだ。首を振る小夜に、圭介はなおもいう。 「遠慮することはないのだぞ。兄には何でも言え。そうだ、屋敷までの駕籠を用意しよう」 鬼同心と呼ばれている男の豹変ぶりに、さすがの小夜も戸惑ってしまうのだった。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!