三、鬼同心の涙

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  小夜は、座敷に圭介と向かい合ってすわっていた。やはり、まだ何も思い出せない。 「里が滅びてから、もう三年が経つのだな。怖い思いをさせてすまなかった。俺は、里が危ういと知っても、己の保身に目がくらみ、何一つしてやることができなかった。悔やんでも悔やみ切れぬ」 圭介は深々と首を垂れた。彼の話から、里が幕府によって滅ぼされたこと、圭介はそれを知っていながら何もできなかったこと、そして、自分がかつて、現世の隠れ里に住んでいたことを知る。 「許してもらおうなどとは思ってはおらぬ。さぞ兄のことを憎んだであろう。だが、これからはお前の兄として、出来ることは何でもしてやりたいと思っている。どうか、兄のこの気持ちだけは、許してやってもらえまいか」 「顔を上げて兄上。……兄上の気持ちは痛いほど伝わってくるわ。でも、私」 小夜は一呼吸置いてから、意を決して言った。 「自分が現世で暮らしていた時の記憶がないの。里のことも、家族のことも」 「何だと?」 圭介の顔は一気に蒼白になる。 「そんな……それほどまでに兄は、お前を傷つけてしまったのか……なんということだ」 「兄上のせいじゃないわ。里が襲われたことも、一族が多く殺されてしまったことも、兄上が悪いわけではないでしょう?」 「小夜……。なんて優しい妹なのだ」 涙ぐむ勢いの圭介に、小夜は若干ひいてしまった。……本当に自分の兄なのだろうか。 「そう言ってくれるのはこの上なくうれしいが、兄が無力だったことは確かだ。……しかし心苦しいな。何も悪くないお前に、記憶を失くすほどの辛い経験をさせてしまったとは……」 「私なら大丈夫よ。異界で不自由なく暮らしているわ。役目もちゃんとこなしているし」 死んでいった一族たちは、気の毒ではあるが、すでに苦しみから解放されていることだろう。何度も人々をあの世に送り届けている小夜にとって、死とは恐れるものでもなんでもないのだ。 「しかし……たった一人で、暗い異界へ追いやられてしまったとは。兄はお前が不憫でならぬ……!」 圭介はとうとう袖で涙を拭い始めた。浅葱が見たら、たいそう仰天するだろうと、小夜は心の片隅で思った。 これでは少しも話が前に進まない。小夜は話の方向を変えようと口を開く。 「私、記憶を取り戻したいと思っているの。だから、兄上に会いに来たのよ」 「そうか。辛い記憶と分かっていてなお、逃げずに立ち向かうというのか。お前は強い娘なのだな」 また涙を拭う圭介だったが、小夜は気にせずに続ける。 「でも、ちっとも思い出せないの」 息をつく小夜に、圭介はさらに悲しげな顔をする。 「この兄を前にしても、思い出せぬのか。無理もないかもしれぬ。兄が里を出たのは十六のころ。今から十一年も前だ。お前はまだ九つだったな。薄情な兄のことを見ても、思い出せぬのは当然だ」 今度は肩を落としてしまった。 「そういえば、お前が取られそうになった櫛だが」 小夜は懐から取り出す。鈴と同じく、なぜかとても愛着を感じているものだった。 「この櫛は、母上の形見だ」 圭介は懐かしそうに目を細めた。 「……母も、殺されたの?」 「いや。父上と母上は、俺とお前が幼き頃に亡くなった」 「そう」 圭介は多くを語ろうとはしなかった。小夜も追及はしない。一度にたくさんのことを知り、少し疲れてしまった。 「小夜、お前はまた異界に戻るのか。もしよければ兄と共にこの現世で暮らさぬか。そのうちに記憶がもどるかもしれぬ」 「……そうかもしれないわ。でも私、決めた」 小夜は兄をしっかりと見つめ言う。 「鬼灯の里に行ってみようと思うの」 圭介は悲痛な表情をみせた。 「かつて里があった地は、荒れ果てていると聞いている。襲われた当時のまま、一族の弔いもされておらぬ。……それでも行くというのか」 「ええ。早く記憶を取り戻したいの。取り戻さなければならない、そう感じるの」 時折響く声の正体。誰なのか知りたいという思いが、圭介に会ってさらに強くなった。そして、自分がどういう人生を生きていたのか。急に興味がわいた。 現世で生き、死んでいった人たち。 まだ子どもだったり、年老いていたり、もちろん人によって生きた時の長さは様々だが、自分の生きた記憶を抱きながら、あの世へと旅立っていった。辛いことも悲しいことも苦しいことも、すべて受け入れて。 大切な人を想い涙する者もいた。現世を憎み、怒りをあらわにする者もいた。自分の死を知り、ほっと安堵する者もいた。それでも、小夜はいつしか彼らを羨ましいと思うようになってしまったのだ。 小夜にも、現世で生きた記憶があるのなら。思い出したい。たとえどんなに残酷で、悲しい記憶だとしても。 「兄上教えて。里があった場所を」 圭介はしばし考えていたが、小夜の真剣な目を見て、やがて口を開く。 「東北の地、会津に鬼灯の隠れ里があった。ただ、それ以外の正確な場所は、俺も分からぬ。もしかしたら、鬼火が示してくれるやもしれぬ。お前ほどの力があれば」 「分かったわ。ありがとう、兄上」 「一人で平気か。この兄もついていこうか」 「兄上には、同心の仕事があるでしょう? 自分の仕事に励まなければ。私は大丈夫よ。――記憶はないけれど、たった一人の家族に会えてよかったわ」 小夜がにっこり言うと、圭介は再度目を潤ませる。もはや鬼同心の面影はどこにもなかった。
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