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一、胡蝶の夢
琴音(ことね)は、日光街道でも評判の看板娘だった。行き交う旅人の疲れをほんの少しだけ癒す。ほっと一息ついてもらう。茶屋での出会いはほとんどの場合一期一会だが、たまに顔なじみもいたりする。
父と二人で切り盛りし、小さい茶屋ながらも何とか二人食べていけるほどの稼ぎはあった。
旅の話を聞かせてくれる客や、身の上話をしてくれる客もいる。琴音は彼らの話を聞くのが大好きだった。もちろん悲しい物語もたくさんあるが、話をしてくれた後の客の顔は、ほんの少しだけ憑き物が落ちたような顔をしていた。
毎日が充実していて、とても満たされていた。琴音は決して裕福とはいえないが、温かい生活に不満はなかった。むしろ幸福だと思っていた。こんな日々がずっと続けばいい。琴音の願いはただ一つだった。
「いらしゃいませ」
穏やかな春の昼下がり、琴音は今日もいつものように旅人を迎える。自分の口調は思ったよりも弾んでいて、琴音は内心で笑ってしまう。
今日はお気に入りの鶯色の着物を纏っているせいか、気分がいい。心地の良い春の日差しにぴったりだ。
琴音は客に目を向ける。年の頃は自分と同じくらい、二十ほどだろうか。ゆるく髪を結んだ可憐な女性が腰かけに座っている。傍らに設けてある鮮やかな番傘にも負けぬくらい、彼女の美麗さもまた色濃く輝いていた。
「お茶を一杯、いただける?」
「は、はい。ただいま!」
見惚れていた琴音は慌てて中へと戻った。
なぜだろう、胸騒ぎがする。彼女がとても綺麗だからだろうか。それとも他に別の理由があるのか――。琴音はざわつく心を落ち着かせつつ、湯呑に熱いお茶を注ぐ。いい香りが立ち上った。
「どうぞ」
「ありがとう」
女性は微笑んで湯呑を手に取ると、口に運ぶでもなくじっと中身を見つめていた。するとどこからか薄桃の花びらがひらりと舞い、吸い込まれるように湯呑の中に落ちた。
「あら」
女性は小さく声を上げた。琴音は彼女が放つ独特の雰囲気にのまれそうになりながらも答える。
「桜の花びらでしょうか。このところあたたかい日が続いてたから、早咲きなのかもしれませんね」
「きれいね」
女性は小さな唇を震わせ、白い顔を上げた。
「本当にきれいすぎるの。現世は、こんなに静かで穏やかだったかしら。そう、思わない?」
黒目がちな瞳が、琴音を硬直させた。まるで心を読まれているかのような、まっすぐすぎる双眸に吸い込まれそうになる錯覚を覚えて、琴音は目をそらしてしまう。
不安が大きくなっていく。何か大切なことを忘れている――? さっきまでのうららかな気持ちは息をひそめてしまった。琴音は盆を握りしめる手に力を込める。
「そんなことないですよ。ほら」
琴音が往来に目を遣ると、急に雑踏の喧騒が戻ってきた。旅装束の人々が多く街道を行き交う。
琴音はほっとした。一瞬だが、ここは夢の中か何かかと疑ってしまったからだ。
「いつもの、賑やかな街道ですよ。……それにしても、珍しいですね。女性の一人旅なんて。伊勢参拝ですか、それとも江戸見物?」
最近では庶民の旅が増えているのだ。もっとも多いのが伊勢参りだろう。だが、女の一人旅とはずいぶんと物騒だ。
戦のない世だとはいえ、道中には追いはぎや野盗も存在する。多くが数人でかたまって向かうというのに。それに、女一人では何かと不便だろう。関所を通るにも難儀しそうだ。女だと詮議も厳しくなるときく。高い路銭を払い、抜け道を案内してもらう者も多いというが……。
「そうねぇ、旅だとよかったのだけれど。私はね、琴音さん。あなたを迎えに来たのよ」
「え……?」
琴音は小さく声を上げ、迫りくる息苦しさをぐっとこらえた。
「どういうことです? それにどうして私のことを知っているの?」
「それは、私が鬼灯一族だからよ。鬼灯一族は、死者をあの世へと案内する役目を担っているの」
淡々とおかしなことを口にされ、琴音は急にこわくなった。相手が嘘をついているようには見えないので、よけいに不安になる。
鬼灯一族、客から聞いたことがあるような、ないような。
彼女の話が本当なのだとしたら、自分が死人だということだろうか。まさか、そんなことがあるわけない。だってこうして、街道の店に立っているではないか。
「私は小夜。あなたをあの世へと送り届けるわ。少しの間だけれどよろしくお願いね」
「……嘘よ」
琴音は優美に笑む小夜を睨みつけた。
「私は死んでなんかいません! へんな冗談はよしてください!」
琴音はむきになった。
(どうしてどうして。こんなにこわくなるの。彼女はおかしなことを言っているのに、どうして受け流せないの)
「困ったわね。かたくなに拒まれると、鬼火が灯らないのよ」
小夜は美眉をくもらせ、傍らに置いた提灯を見遣った。
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