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「何を訳が分からないことを言っているの。とにかく、私はちゃんと生きています。心配はご無用です」
少し冷静さを取り戻し、琴音は胸に手を当てる。ほら、ちゃんと鼓動している。ちゃんと温かい。つまらないからかいに、怒ることなどないのだ。
「そうねぇ。自分の都合のいいように作り替えられてしまうから、気づきにくいわよね」
あごに指を当て小首をかしげる姿はやはり愛らしい。相手はまったく引き下がらない。
(どうしたものかしら)
思案していると、ちょうどよくいつかの記憶がよみがえってきた。鬼灯一族。聞いたことがあったのだ。
「私、思い出しました。茶屋に来たお客さんから、聞いたことがあります。でも、私が知っているのは、鬼火を操る力を持っていて、関ケ原の戦で暗躍した、という話です。武功をたてたものの、その力をおそれた徳川家によって追討され滅びた悲劇の一族。御伽話だと思っていました。死者を案内するなんて話は聞いてませんけれど」
琴音は相手の様子をうかがう。小夜はやはり、動揺することもなく、ほんのり色づいた唇を美しく動かす。
「そうね、ずっと昔に、そんなこともあったかもしれないけれど……今の私には関係のないことよ。確かなのは、私が鬼灯一族として、死者であるあなたを迎えにきたということ」
「私のどこが死人だと言うんです?」
琴音はめげずにひらひらと袖を振ってみせた。こんなにぴんぴんしているし、茶屋に自分の足でしっかりと立ち、働いているのに。
「うーん。どうしたら気づいてくれるのかしら。あなたのお父上は、どこにいるの? 二人で切り盛りしているのよね」
「父は……」
なぜ知っているのだろう。再びこわくなりながら、琴音はうつむくと続ける。
「具合を悪くしていて、村で療養しています。だから今は私一人でお店に立っているんです」
「肺を病んでいらっしゃったのでしょう? あなたはお父上を看取ったはずよ」
「馬鹿なこと言わないで。父さんはきっとよくなります――」
風景が一瞬、揺らいだ気がして琴音は言葉を止めた。
「なに、今の……」
「あなたの意識が、思い出したがっているの。あなたの名は琴音だったわ。でももう一つの名もある。胡蝶(こちょう)という名」
「そ、そんなの知らない。私の名は一つしかない!」
「本当にそうかしら。あなたが店に立っていたのはいつまでだった?」
「やめて! お願いそれ以上言わないで!」
思イ出シタクナイノニ。
琴音は内側からがんがんと叩かれているような頭の痛みにしゃがみこんだ。記憶を押し戻そうとすればするほど息苦しさと気持ち悪さが増していく。
琴音は茶屋の看板娘だ。父と二人で店に立ち、旅人たちをほんのいっとき休ませる。そうやって今まで生きてきた。これからもそのはずで……。
「大丈夫。何もこわいことなんてない。おそれることなんてない」
耳元でささやかれているような、静かで不思議な声。琴音の中で大きく響いて何度も反響する。
「苦しみは、もう終わったことなのよ。今はもう何も心配しなくていいの」
歌うような声音の美しさに、琴音は抵抗するのをやめ意識を委ねる。痛みがやわらいでいく――。
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