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病で伏せっていた父が死んだ。
二人でどうにか開いていた茶屋も、たたまなければならなくなった。琴音が一人で店に立つことも考えたが、父が病に伏せっている間でも、一人なのをいいことに手籠めにされそうになったり、盗みを働かれたり、危ういことが多くあった。
女がたった一人で街道の茶屋をやっていくのは困難なことを琴音は嫌というほど思い知らされたのだった。
「……父が死んでから、借金があることが分かりました。私は、旅籠の飯盛女として身を売るほかなかったのです」
琴音は小夜を見遣る。きれいな双眸が話の続きを待ってくれている。けれど、そこには少しの感慨も浮かんではいなかった。
(ああ、本当にこの人は……死者を送り届ける以外、興味がないのね)
辺りは仄暗く、さっきまでの賑やかな人の通りもない。腰かけに置かれた提灯の、青白い灯りだけがすっかりさびれた茶屋を包み込むように縁どっていた。
赤々と燃えるようだった茶屋自慢の番傘も、今や穴だらけで色もすすけており、本来の役割を果たしていない。腰かけに座っている琴音と小夜を、寂しげに見下ろしていた。
それでも、琴音は話すのをやめたいとは思わなかった。誰でもいい。誰かに、聞いてもらいたかった。自分が生きたのだということを。
「胡蝶と名付けられて、何人ものお客を相手にしました。つらいとか、苦しいとか、もう何も感じなくなりました。旅籠での扱いもひどくて、ろくに食事も取らせてもらえないことも多々あり、何度も逃げ出そうとしてひどい折檻を受けたこともあります。飯盛女として働いて一年が経った頃。私は風邪をこじらせてしまい、父と同じく、肺を病みました。使い物にならないと、旅籠を追い出されたのです。雪が積もる、寒い夜のことでした」
琴音はひざに置いた手を握りしめた。
望んでいた自由を手に入れた。旅籠から解放された。でも、先を生きていく力はもう残っていなかった。
「私は、そのまま彷徨って……誰もいない場所で、力尽きました。とても寒かった。寒くて苦しくて、悲しかった。最後の時、私はとある春の日を思い出していました。父と二人で、茶屋に立ち、お客さんを迎えていた時のことを。温かくて、優しくて、とても――幸せだった時を」
春のまま時が止まっていれば、ずっと幸福でいられると思った。死んだことから目を背けて、きれいで望む世を作り上げて。
「どうして、来てしまったの。あなたが来なかったら、私は今度こそずっと幸福でられたのに」
琴音は小夜をにらんだ。どうして、このままにさせてくれなかったのか。
小夜の表情は少しも揺るがない。曇ることなく、きれいなまま。だからこそ、やるせなくなった。悔しさの行き場がなくなってしまう。
「ねぇどうして! どうして私のことを見逃してくれなかったの!! どうして私なの。どうして……!」
気が付くと、琴音は小夜にすがって泣き崩れていた。
小夜は何も言わなかった。ただ黙って、優しく髪をなでてくれていた。やがてすすり泣く声が少し落ち着いた頃、彼女はゆっくりと口を開いた。
「永遠に、偽りの世で偽りの幸せを彷徨うことが、本当に幸福なことなのかしら。ずっと時が止まったまま、どこにも進むことができない。きっと、それは何よりも悲しいことよ。どこにもゆけず、とどまり続けることは、幸せのふりをした地獄だと思うわ」
「……私は、進むことができるの? もう、迷わなくていいの?」
琴音が涙で濡れた顔を上げると、頬を小夜がそっと拭ってくれた。
「ええ。あなたは生き切ったの。じゅうぶん、がんばったの。だからもう、泣かないで。あなたは一人じゃないわ」
じんわりと言葉が心に浸透していく。さっきまでとは違う、温かい涙がはらはらと落ちていく。
琴音は心を決めて、涙を拭った。
「最後の最後で、私がここで身の上話をするなんて。いつもお客さんの話を聞いていたのに。おかしなものね。でも――さっきよりもだいぶ心が軽くなった」
話を聞いてもらえただけで、こんなにも。今まで茶屋で出会ってきた人たちの顔が、幾人も浮かんでは消えていく。悲しい物語もあった。楽しく、面白い物語もあった。
話した後は皆、すっきりとした顔をしていたり、とてもうれしそうな顔をしていたり。
「それは、琴音さん。あなたがここで、人にしてくれていたことと同じことよ。誇ってもいいと、私は思うわ」
「ありがとう。私がここで茶屋の娘として生きたこと、ちゃんと役に立っていたのね」
彼らの人生に大きな影響を与えたわけではない。でも、ほんのいっときでも、彼らを癒すことができていたのなら。琴音は茶屋の娘として生まれてきたこと、自分が生きてきたことを、うれしく思う。とてもとても、幸福だったと胸を張って言えるのだ――。
「でもね。欲を言うなら。もっと。もっと――生きていたかったな……!」
道の果てまで、小夜は琴音を送り届けた。
ここから先は、死を受け入れた者しか進むことができない。琴音は一度振り向いて、ゆっくりとおじぎをした後、光の中へと消えていった。苦しみも、悲しみも痛みもない。黄泉へと旅立ったのだ。
同情はしない。する必要もない。生きることのほうがよっぽど地獄だと思うからだ。琴音のような境遇の人々は、ごまんといる。ありふれている。
いつも小夜は、彼らの『生きたい』という気持ちが分からない。
くるりと踵を返し、小夜は元来た道を戻っていく。迎えを待つ人のもとへ向かうために。
ちりん。
手首に下がる鈴が、意味深に小さく音をたてた。
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