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二、浅葱の空
ちりんと、手首に下がる鈴が鳴る。
ここは黄泉へと続く道。苦しみも痛みもない場所。仄暗い闇を灯すのは、青白に光る提灯の揺らめく炎。小夜は幾度も、死者を送り届ける。
小夜は自分がいつからここにいるのか。どこで生まれて、誰に育てられたのか。一つも知らぬ。小夜には過去の記憶がなかった。自分の名と、鬼灯一族だということ以外、何も知らないのだ。唯一思い出せるのは、おぼろげに揺れる言葉だけ。
『鬼灯とは、死者を黄泉へと送り届ける明かり。人の世を追われた一族は、その役目を担うことになったのですよ』
きっと、そう言われたときから。小夜は鬼灯一族としての使命を背負うことになったのだろう。
穏やかで優しい語り口調が時折こみ上げてくるたびに、小夜は愛おしさと切なさに身をくるまれてしまう。声の主が男なのか女なのか、それさえも定かではないのに、とても懐かしい。
「って、ちゃんと話聞いてる? お姫さん」
小夜はうつろにさまよっていた意識を、目の前の相手に引き戻した。
いけない。死者から目を離しては。あまりに相手がおしゃべりなので、つい違うことを考えてしまっていた。
この道は、鬼火が灯っていれば何も起こらないが、死者が鬼火の届かない場所に迷い込んでしまえば、たちどころに魑魅魍魎に喰われてしまう。無事あの世へ送り届けることが役目。送る魂を喰われてしまっては、鬼灯一族の名に傷がつく。
完璧に仕事をこなすこと。それは絶対に譲れない。
「ごめんなさい。さぁ行きましょう」
「いやぁ、だからちょいと待ってくれよ」
小夜は嘆息しつつ振り向いた。男はいかにもお調子者といった風だが、笑顔だけはやたらに爽やかだった。小夜のことも、名乗ったにもかかわらず、恥ずかしげもなく『お姫さん』と呼び、死んだことに気付かせたはいいものの、口説こうとしてくる始末だ。
浅葱(あさぎ)というこの男が、小夜は少し苦手だと思った。さっさとあの世へと送り届けたいのだが、彼はなかなか足を先に向かわせようとしない。
「俺ぁ、まだやり残したことがあんだよ。頼む、お姫さん。少しだけ時をくれないか」
両の手の平をぱんっと合わせ、浅葱はわざとらしい上目遣いで小夜を見てくる。小夜はまたも小さく息をつく。とても面倒な相手だ。
「その手には乗らないわ。あなた、いつもそうやって女性を騙してきたんでしょう? ……ただの岡っ引きのくせに」
「おやおや、お姫さん。俺のことが分かるのかい?」
「もちろん知っているわ。私は鬼灯一族よ。それに、あなたの着物。裁付袴に羽織にたすき掛け。いかにも、な格好をしているじゃない」
「違いねぇや」
目尻がきゅっと上がり、顔立ちはずいぶんと整っているが、どこか胡散臭い印象を受けるのは、こなれたような、完璧すぎる笑顔のせいかもしれない。
「こりゃ、手ごわいねぇ。さてどう口説き落とそうか」
浅葱はあごに手を当てにやりと笑う。まだまだ自信ありげだ。小夜はうんざりした。女性の中には、男前な容姿と、粋で色気のある仕草にころっと言うことをきいてしまう者もいるかもしれないが、小夜にはまったく響かないし、それどころか興味もなかった。
「人の心残りをいちいち聞いていたらきりがないの。もうあきらめたほうがいいわ。死んでしまったあなたには、現世でできることなんて何もないのよ。きれいさっぱり忘れることね」
これでもかと冷ややかに言い放ち、先を進もうとする小夜の腕を浅葱はなおもつかんでくる。
「待っておくれよ。なぁ、ここには俺とお姫さんの二人きりだろ?」
すぐ耳元でささやかれ、小夜は身をかたくした。
「綺麗な髪だ」
次に、浅葱は背後から小夜の黒髪に触れた。
「離して」
小夜は毅然として告げるが、相手は怯まない。
「一度だけでいい。現世に戻しておくれよ。心残りを片づけたら、お姫さんの言うことをきく。なんなら……二度と味わえないような極上の時を約束するぜ。俺は昔、添い寝屋をやっていたこともあるんだ」
耳元に、吐息がかかる。何とも言えない気持ち悪さが全身を駆け巡る。小夜は隙だらけの相手のみぞおちに思いっきりひじを打ち付けた。
「ぐっ!」
小夜はくるりと体を反転させると、今度は思いっきり浅葱の足を踏みつけた。
「いってーー!」
小夜は浅葱を軽蔑の目で見つめる。
「ひどいや、お姫さん。でも、気の強いところも惚れ直しちまうなぁ」
痛がっているくせに、浅葱の口は減らない。
「甘く見てもらっては困るわね。私は鬼灯一族よ。いざとなったら、鬼火であなたの魂ごと焼き切ってしまうことだってできるの。今のはただの警告。二度目はないからそのつもりで。観念してついてきてちょうだい」
「へいへい。分かりましたよ。魂まで消されちゃあ、元も子もねぇや」
やっとあきらめてくれたらしい。もちろん、ただの脅しだ。本当に魂を消してしまっては、役目をまっとうできない。小夜が今度こそ提灯を前にかざした、その時だった。
「――なんてな。ごめんな、お姫さん。俺はまだあの世にいくわけにゃ行かねぇんだ!」
慌てて振り向いた時には、浅葱は自らの胸に短刀を突きさしていた。
「まさか!」
目を見開く小夜に、にっと笑うと、浅葱の姿は蜃気楼のようにかき消えたのだった。
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