三、鬼同心の涙

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三、鬼同心の涙

手の内にあった和紙が青白く燃えて、一瞬で炭と化した。夜分遅くの橋の上には、圭介一人だ。昼間はにぎわうこの日本橋も、別世界のように静かだった。 「……調子が狂う」 いつもそばでやかましかった奴がいない。うるさい黙れと、言い放つ相手はもういない。おかしな心地だ。一人には慣れていたはずなのに。 浅葱は言っていた。今のように、文を鬼火で燃やしているときだ。 『とんだ人でなしだ。人が一生懸命に書いたであろう恋文を、いとも簡単に燃やしちまうなんて』 圭介が持っていた和紙の残骸は、秋の風に煽られて橋の上から四方へ散っていく。人の通りもないので、圭介の所業を見ている者は誰もいない。 なのに、まだ近くに浅葱がいるような気がしてならなかった。文句を言う声が、聞こえてきそうだ。 『納得いかねーよな。こんなに冷たい男なのに。冷ややかな目で見られても、素っ気なくされても女にとってはたまらないっつんだからなー。……ただ奥手なだけだっつーのに』 減らず口を叩く浅葱に、圭介はいつもこう答えていた。 『江戸の治安を守るのに、色恋など不要だ』 思い出し、ふっと笑う。 「いなくてもやかましい奴だな」 心の中で。記憶の中で。浅葱はいつまでも圭介のやかましい相棒に他ならない。 そして浅葱は、圭介が伝説上の一族、鬼灯一族の末裔だということを知っている唯一の友だった。 関ケ原で徳川軍として戦った、鬼火を操る力を持つ一族。圭介はその末裔だ。 数々の武功をたてた一族だったが、その特異な力ゆえ、戦なき後、反乱を恐れた幕府によって追討された。 その後、一族はばらばらになり、里に隠れ住んだ者、もとの通り静かに死者の案内人を務める者に別れたのだという。 厳密にいえば圭介は、里に身を隠しながら現世で生きることを選んだ一族の、数少ない末裔ということになる。 あれから二百年が経っている今となっては、その存在すらも危うげで、架空の一族だと思っている者もいるほどだ。 そして、浅葱が死の間際に言ったことが圭介に淡い期待を抱かせた。 (妹は生きている……鬼灯一族の役目をたった一人でこなしているのか) 浅葱は、圭介が妹について話したことを覚えていたのだ。 (酒に酔うたびに、話を聞かせていたから無理もないだろうな) 圭介はしばし、追憶の中へ身を委ねる――。 ――人気のない橋の上。文を燃やした後、意見してくる浅葱に圭介は言った。 「何度も言うが、色恋など仕事の邪魔になるだけだ」 「またまたー、そんな格好いいこと言って。本当はいるんじゃねぇの? 前に町娘を誰かと勘違いして声を掛けたことあるじゃん」 圭介がぎろりと浅葱を睨むと、彼は分かりやすく口をつぐんだ。 「ほ、ほんの冗談だって……」 圭介は呆れて嘆息すると言う。 「……妹に似ていたからだ」 「妹?」 意外な返答だったのか、浅葱はきょとんと目をしばたかせ、やがて噴き出した。 「あんたに妹御がいたんだ。こりゃ初耳だ。一体どんな娘なんでぇ?」 鬼によく似て、仏頂面の堅物だったらかわいそうだ、小声で言ったのを聞き逃さなかった圭介はまたも浅葱を睨む。 浅葱は口笛を吹き知らばっくれた。まったく毎度毎度懲りない男である。 「ずっと妹とは会っていない。ゆえに、どんな娘御になったのかは知らぬ。俺は十六のとき、生まれ故郷だった里を抜け出した。その時、妹はまだ九つだったからな」 「ってことは、その娘も、かの鬼灯一族ってことか」 圭介は小さく息をつくと、夜空を仰ぐ。 「今となっては、生きているのかどうかも分からぬ」 「会いに行ったりしねぇのかよ」 「里は……数年前に滅びた。会いたくとも、もう会えぬ」 「なんだって?」 「二年前、江戸で不審火騒ぎが横行したのは知っているな。……鬼灯一族の仕業だという噂がたった。事態を重くみた幕府は、関ヶ原以来、二度目の一族追討令を出した。あくまで、秘密裏に」 とはいえ、同心だった圭介がそのことを知るのは容易だった。だが、妹が住む隠れ里はそう簡単見つかるはずはない。そう思っていた。 「しかし、甘かった。隠れ里に住む者から密通があったのだ。不届き者め、幕府と取り引きしたのやもしれぬ」 「おまえ……それを知ってて黙って見過ごしたのかよ」 「ああ。……同心であった谷野丈之進(じょうのしん)様の養子になり、やっとのことで後を継いだ俺が、おいそれと鬼灯一族の末裔だと知られるわけにはいかなかったのだ……。俺はたった一人の妹よりも、我が身を守ったのだ」 「俺はそんなこと……全然知らなかった」 「当たり前だ。あくまで秘密裏に処理されたこと。下っ端のお前が知るわけないだろう」 「一言相談してくれてもよかったじゃねぇか!」 「巻き込みたくなかった。それにお前は幕府に楯突くと言いかねない。危なっかしい」 浅葱は不満そうな顔をする。軽蔑されても仕方がない。圭介は続ける。 「……幾人もの一族が里で殺されたときいた。だが……数名が江戸に連れてこられた。見知った顔もあった。彼らは殺された後、放火犯として見せしめのため河原にさらされた。鬼灯一族だということは隠されてな。よけいな混乱を生まないようにするためだ。結局俺は、その時も何もできなかった」 自嘲気味に笑い、圭介は浅葱を見る。 「不甲斐ない兄だ、たとえ妹が生きていたとしても、顔向けできぬと思っていたが、やはり……似た娘を見つけてしまうと、会いたいという感情が勝ってしまうのだな」 「……そうかい。……すまなかったな。からかっちまって」 「気にしていない」 圭介はばつが悪そうにする相手に短く言う。本当に憎めない男だ。 「妹の生死は分からない。滅びた里へ確かめに行く度胸もなかった。ただ……妹は鬼灯一族の姫だ。運よく異界へ逃れることができていれば……」 「異界? なんだいそりゃ。そこに行けば、もしかしたら妹さんのことも分かるってことかい」 「一族は元々、現世とあの世との境目で生きてきた一族だ。鬼灯とは、死者の魂を黄泉へと送るための明かりのこと。一族は死人を案内する役目を担っていたが、その一部が現世に憧れを抱き、移り住んだとされている。俺には異界と現世を行き来する力はないがな。姫である妹ならば、異界へゆく力が備わっているかもしれぬ。妹の力はことのほか強かった」 「へぇ、お姫さんかぁ。姫さんはその異界とやらにいて、死者を送り届ける役目をしているかもしれねぇってことか」 「ああ。あくまで、かもしれぬ、だがな」 浅葱は何かを思い付いたのか、ぽんっと手を打った。 「ならもし俺がいつか 。あちらに行く途中でお姫さんに会ったら。あんたが会いたがっていたこと伝えてやるよ」 「おい、縁起でもないことを言うな」 「今の世の中、何が起こるかわかんねぇ。岡っ引きだっていつ命を落としても不思議じゃねぇ仕事だ。死ぬのはやだけど、万が一そういうことになったとして、希望があるってのも粋だろ。で、名は何てんだい」 「小夜だ」 「よっしゃ、覚えたぜ!」 「……気持ちだけ受け取ってやる。だが早死にだけはしてくれるなよ。まだまだこき使ってやるつもりなのだからな」 「へいへい。せいぜいがんばりますよっと」   ――再び静寂に戻ってくる。 いつの間にか目を閉じていたようだ。やかましかった相棒の姿は、もうない。 (俺には、妹に会う資格などない。生きているのなら、それでよい) 夜も深まり、秋風が更に冷たくなった。 圭介は袖に手を入れると、屋敷へと踵を返すのだった。
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