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ホタル帰る
穴沢少尉は飛行マフラーの下に彼女のマフラーを巻いて出撃した。
穴沢の日記にはこう記されている。
「智恵子よ、幸福であれ。真に他人を愛し得た人問ほど幸福なものはない」と。
見送るなでしこ学徒隊と出撃する穴沢機
「では、杉浦中尉、お早く回復されますように」
「穴沢少尉、ご武運を祈ります」
穴沢の後ろ姿が三角兵舎から消えた。
あの穴沢少尉と自分は言葉を交わしたのか。妙な感慨が湧いた。
一番手前が穴沢少尉、婚約者のマフラーで首元が膨らんでいる。
知覧の地に「特攻の母」と称された人がいた。
知覧飛行学校(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場)ができた時に軍指定食堂となった富屋食堂の鳥浜トメである。指定とはいえ健全で清潔で安心して軍人が立ち寄れる所だと推薦してくれるだけのことだったが、数日後には死んでいく金の少ない少年兵たちに、トメは着物や家財道具を売りながら食事を振る舞い、母として尽くしていた。
過酷な訓練に明け暮れ、たまの日曜日に外出しても何の娯楽もない知覧。その少年兵たちにとって富屋はたちまち心のよりどころとなった。
少年兵たちは畳の部屋に寝そべったり、トランプや将棋に興じたり、郷里に手紙を書いたり、トメの手料理に舌鼓を打ったり、時には風呂で背中を流して貰うこともあったという。
新潟出身の宮川三郎軍曹(20歳)のエピソードは「ホタル帰る」として有名だ。
20歳の誕生日を迎えた特攻の前夜、「死んだらまた小母ちゃんのところへ、ホタルになって帰ってくるよ」と言い残して宮川軍曹は出撃した。
宮川三郎軍曹
翌日の夜、約束の9時に食堂に一匹の源氏蛍が入ってきた。トメはそのとき初めて泣き崩れた。トメの2人の娘や特攻兵たちは、宮川の希望どおり「同期の桜」を歌った。
鳥浜トメと特攻隊員たち
戦後のジャーナリズムが軍国主義を否定する立場から、特攻隊員たちを冒涜するような言動を弄した。それにより、トメはひどいジャーナリズム嫌いとなった。自らの命をかけて特攻をした彼らに罪はないのだから。
時代が変わるように常識も変わる。日本国内で大名同士が血で血を洗って領土拡張を図ったのと同じく、世界にも同じ時代があった。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、あまたの大名がいまだに尊敬されるのに、なぜ特攻は、靖国神社は疎まれるのか。
靖国神社は日本のために命を散らせた者たちの眠る場所。靖国参拝は日本国内の問題である。他国にとやかく言われる筋合いのものではない。鳴海は改めて、強く思った。
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