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幸せの物差し
〇小説中には実在した人物も登場していますので、最初の登場部分に傍点をつけてあります。大東亜戦争に関しては、できるだけ史実に忠実にを心がけましたが、証言に食い違いがあるものは取り上げませんでした。最後までお付き合いいただければ、望外の喜びです。
四歳になる娘のすみれが、食卓でトーストを頬張っている。
「すみれ、パンだけ先に食べちゃダメよ」フライパンを揺らしながら、妻の早紀が肩ごしに振り返る。
咀嚼のリズムに合わせるように頷きながら、すみれは足をぶらぶらさせている。
一足先に朝食をすませた鳴海修作は、吹雪いた庭にスノーダンプを掛けなくてはと、時計を気にしていた。
換気扇の回る音。フライパンで弾けるオイルのリズム。朝の何気ない風景。ありふれた食卓の香り。
どこにでもいる家族。しかし、どこにもない組み合わせ。ここにしか咲かない、陽だまりに寄り添う野辺の花。
人に訪れる不幸の形はさまざまだけれど、共通点がひとつある。それは、定規で線でも引いたようにくっきりとしているということだ。
なぜなら、その訪れは瞬時だから、幸と不幸の境界線が刃物傷のように生々しいのだ。そしてその色合いは言わずもがな似ている。
かたや、幸せの色や形はさまざま。それを測る物差しはかなり曖昧で、定義もあやふやなもの。だから、対象物を失って初めて、幸せだったと過去形で気づいたりする。
問われたことも、立ち止まって考えたこともなかったけれど、幸せかと訊かれれば、確かに幸せだった。何疑うことなく、心穏やかだった。
失ったのではなく、実は得てさえもいなかったもの。その正体は、あまりにも惨いものだった。
鳴海の視線に気がついたすみれが、口の端にイチゴジャムを付けたまま満面の笑みを浮かべた。
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