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穴沢少尉の来訪
「中尉──杉浦中尉」呼びかける声に意識が引き戻される。
「おやすみのところすみません。穴沢です」頭上で声がした。
「あぁ、穴沢少尉」鳴海は腰を折る声の主に向けて寝返りを打った。
「具合の悪い時にすみません。明日出撃します。それでご挨拶に」
「聞きました。いよいよですね。どうぞお座り下さい」はい、と頷き穴沢少尉は枕元から少し離れたところに腰を下ろした。
「短い間でしたが、ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ」
「『焦るな。生きるべきときは生き、死ぬべきときにのみ死ぬことこそ、真の勇気である』。出撃しながら、おめおめと帰還した私の肩に手を置き、やさしく掛けていただいた言葉、これまでご縁はありませんでしたが、中尉のお気遣いと言葉は胸に染みました」
「いいのです。死ねばいいというものではない。もっともやってはいけないのが犬死です。聞くところによると、迎撃機の数がいつにも増してすごかったようですね。引き返したのはいい判断であったと思います。
それに、あれは水戸光圀の言葉です。お恥ずかしながら新渡戸稲造の武士道からの受け売りです。『戦場に飛び込み、討ち死にするのはいつもたやすきことにて、身分の賎しきものにもできる。生きるべきときは生き、死ぬべきときにのみ死ぬことこそ、真の勇気である』」
「そうだったのですね。とてもいい言葉を教えていただきました。杉浦中尉が直属の上官であればと、思ったりします」
「いえいえ。横になったままで失礼します。ひどくめまいがするもので」
「お気を遣わないでください。こちらこそ押しかけてしまって、申し訳ない限りです」揃えた指先を腿に置き頭を下げた。
「今日は我々二十振武隊の12人と六十九振武隊、三十振武隊のお別れの会が富屋食堂であります」
「そうですか。最後の夜を、どうぞ存分にお楽しみ下さい。まさしく死ぬために我々が今ここにいるのも、時世時節の賜り物。これもなにかの縁でしょう」
誰だ。
すらすらと言葉を発しているのは杉浦だろうが、自分でも違和感なく口が動く。杉浦の記憶がそのまま頭に流れ込み、まさしく同一化しつつあるようだ。
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