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「詩織ッ?!」
俺は手を放してすぐさま詩織を見た。何も変わっていなかった。彼女は相変わらずぼんやりと無表情で前を向いている。何度も夢中で名前を呼んだ。もう一度抱きしめてみた。……でも、彼女は反応しない。
幻聴だったのだろうか。俺の弱い心が生んだ、都合の良い妄想だったのだろうか? それでもいい。今は優しい夢に縋っていたい。もしもチャンスがあるのなら、今度こそ詩織を幸せに……
――あれから十年の歳月が経った。
俺は彼女と結婚した。義両親はそこまでしなくて良いと言ったけれど、そうしたかったんだ。
あれだけ執着していた夢が今はどうでも良くなっていた。一人で走り続けること、それによって失うことの怖さを知ってしまったからかもしれない。
仕事も辞めて故郷に戻り、融通の効く母校の非常勤講師となった。
研究者だった頃の知識を活かし独自のリハビリを考案してみた。その成果かは不明だが、詩織は少しずつ話すようになったのだ。
でも、記憶は戻らない。赤ん坊のように一から言葉を教えて、最近ようやく日常生活を送れるようになってきた所だ。
リビングのピアノの上に飾ったシンプルな木枠の写真立ての中には、今もあの頃の俺達が変わらぬ姿で映っている。
時は止まらないかもしれない。
世界は変わっていくかもしれない。
でも、記憶の中の俺達が変わることだってない。あの日過ごした時間だけは、今も胸の中に残っている。
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