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『年末年始臨時休業いたします 鼓』 そう張り紙のある黒い扉を叩くと、沙耶がすぐに出てくれた。 「お待ちしておりました。どうぞ中へ、ママも来てますわ」 玄関では判らなかったが、中の照明で見ると、沙耶の鈴のような瞳は真っ赤になっていた。 馬鹿なことに、私は店内に一瞬翔の姿を探してしまった。 学生らしいあどけなさを残した、制服姿の彼を―― 居るわけもない。 自分で自分を嗤いながら、視線を戻すと、美しい桜色の留袖を纏ったママが、フロアに立って私を迎えていた。 彼女の瞳も赤くなり、いつもは涼やかな目元がやや腫れぼったくなっていた。 「ようこそ東城さん、お待ちしておりました」 「無理を言って済まなかったね」 「とんでもない……どうぞ、お掛けになって」 沙耶に合図して、酒が運ばれる。 広い店内には彼女達二人しか居らず、がらんとしていた。 翔の事故以来、毎日一人ないしは二人ずつが交代で臨時休業の電話番として店に来ている他は、ママですら自宅マンションから出られなかったとのことだった。 「イブだから、今日は混むわねって、夕方にテレビを何となく付けていら、美和が『えっ』て大声を出して。『何よ?』って私が聞いたら『これ……これ、もしかして、翔君じゃ……』って言うから見てみたら……翔君の名前が」 沙耶がハンカチで涙を抑えながら、その日のことを語る。 美和も、翔がここにバイトに来ていた頃を知っている子だ。 私は黙ってそれを聞いていた。 「ママに言うと、ママも『翔君じゃないわよね? 歳も苗字も一緒だけれど、きっと別人よ』って何度も言って。でも神戸の会社の名前が出たから、『嘘!』って皆で叫んで……もう駄目でした、私も皆もママも泣き出して、お店を開くどころじゃなくなったんです」 あの子は、この店でも本当に好かれていた。 ママを始めとして、ボーイもホステスたちも、皆が彼を大切にしていた。 彼ならそれも頷ける話だった。あの子は皆に愛される子だった。 もしこれが長年勤め上げた店員の事故だったら、逆にママは一流のプロとして涙も見せず、見事に店を開いたことだろう。バイトしかしたことがなかった、けれど可愛がっていた若い翔の受難だったからこそ、彼女たちはプロ意識もかなぐり捨てて嘆いているのだ。 ママは、寂しそうに微笑んだ。 「私がこんな時にこんな色の着物を着て、時と場を弁えていないと思われたかも知れませんけれど、この着物は、あの子が綺麗だって言ってくれた品なんですの。『それを着ている時のママが一番若く映る』って――だから、着て来ましたの」 両手に持ったグラスの酒を少しばかり唇に含んで、続けた。 「『あら、じゃあ普段の私は年寄りに見えて?』って聞いたら、『ううん、いつも若いんですけど、何だかとても生き生きして見えるんです』と言って……感性の鋭い子だわって思いましたわ、だってこれは葛城が昔、私のために見立ててくれた反物なんですもの」 葛城とは、彼女が若い頃に浮名を流した大政治家の御曹司の名前だ。 お互いに真剣で、葛城は彼女を今の職から足抜けさせた後で、妻として迎える約束までしていたという。 だがその矢先、彼はヨーロッパを外遊中に列車事故で亡くなった。銀座に馴染みのある人間なら知らない者は居ない、有名な悲恋話だ。 桜色の反物…… 彼も初めて会った時、何故か桜を思い出させた。 端正な目立たない佇まいでありながら、どこか優美さを湛えていた青年。 『今年ばかりは』の哀しい句が頭を過ぎる。 狂おしく咲き切った後、潔く散って行く華。 薔薇のような濃い華やかさではなく、幻想のような華やかさを備えた花。 彼はやはり、始めからそのように運命付けられていたのだろうか。 「一ヶ月しか勤めていない子のために店を休むのかって言われても、私はあの子のためなら何週間でも休めますわ、自分の息子のように可愛かったんですのよ、あんなに良い子はいませんでしたわ、それなのに……」 ママの語尾はくっと嗚咽に消え、立ち上がると奥に急いで向かった。 どうしたのだろうとその背中を見ていると、彼女は手に何かを持って引き返して来た。 「ママ!」 沙耶が叫んだ。 その手に握られている物、それはかつて翔が和光で拾い、ここに届けたスカーフだった。 彼と深い仲になってから二人でこの店を訪れた時、彼女が見せてくれたから、私もよく覚えていた。 「東城さん……私、あのイブの日にこれを襟に巻いて店に出ていましたの、あれは……あれは、何かの暗示だったんでしょうかしら……こんなことってありますかしら、スカーフなんて何十枚も持っていますのに、どうしてあの日に限って……!」 ママの白く美しい頬には、滂沱と涙が流れていた。 指の関節も浮き上がる程にスカーフを握り締め、わなわなと細い手首が震えている。 「これを見る度に思い出しますのよ、不安そうにここを訪れたあの子の姿が、綺麗に畳んだこれを差し出してくれた仕草が――今にもあの子が、『こんにちは』ってそこの扉から顔を覗かせそうな気がしますのに……! あの子が死んだですって、そんなことが信じられますか、その場にいた人たちは怪我だけで済んだのに、どうして翔君だけなんですの、どうしてあの子だけが死ななければならなかったんですの、ええ勝手で結構ですわ、私思いましたわ、何故あの子以外の誰かが死んでくれなかったのかって、悔しくて悔しくて、繰り返し神様を詰りましたのよ」 ママが渡すスカーフを手に取り、私は虚ろな瞳でそれを見詰めた。 彼女がこれを落とさなければ、そして翔がこれを拾わなければ、私達は決して出会うことなどなかったはずだった。 私たちの離れていた運命を結び付けた、美しい布。 彼女が叫んだことは、私が無意識のうちに感じていたことだった。 何故、彼だけがと。十何名も重傷で済みながら、何故彼だけがと。 どうして彼以外の誰かを神は生贄にしなかったのかと。 判っている。親愛なる者の代わりの死を望むのは、自己中心的な考えに過ぎない。 彼女とて充分承知している。承知していて、翔への愛情ゆえにそう叫ばずには居られなかったのだ。 困り切りながら、翔がこれを一生懸命畳んだ時の指の温もりが、まだ残っているような気がした。 これを拾い、手に取った時の、彼の掌の柔かさが―― 気が付くと、スカーフの上に雫が落ちていた。 私の瞳から落ちた涙だった。 ………? 自分で戸惑い、その光る粒を見ていると、ママがああと辛そうに呟いた。 「東城さん……貴方、あの事故以来、泣いていらっしゃらないんじゃ……」 呆然と視線を上げると、ママの顔が歪んでいた。 沙耶は耐え切れず、両手で顔を覆っていた。 「判りますわ。私だって葛城に逝かれた時、秘書の方から急報を受けても、まるで遠くの世界の話でしたもの。私なんかお葬式に出られはしませんから、増上寺での中継をTVで見ただけですし……帰国予定だった日になって、『極上のナポレオンを買って帰るから』と彼が笑っていたのを思い出して、氷を造ろうとしてふっとおかしくなりましたの、『私ったら何やっているのかしら。彼はもう亡くなっているのよ、お葬式だってTVで見たじゃない』って……その途端、涙が噴き出して――二週間泣き詰めでしたわ、泣いて泣いてそれでも涙は止まらなくて、お店にも一ヶ月、出られなかった」 ――私の頬を、涙が伝うのが判った。 それは後から後から流れ、スカーフにぽたぽたと音を立てて落ちて行く。 どうしてこんなに簡単に涙が溢れるのだろう。 彼の遺体を見た時でさえ少しも泣けなかったのに。 ママが私の膝を両手で揺すり、取り縋り、悲痛な声で促した。 「東城さん、泣いて下さいまし、構いませんとも、惚れた人間のために泣いて何が悪いんですの、泣いて下さいまし、お願いですわ」 「っ………」 彼女が、両手で顔を覆った私の頭を抱いた。 掴んだスカーフを目に押し当て、私は泣いた。 ママも沙耶も声を上げて泣き崩れていた。 大の男が、それも一流企業を率いる、社会的にも一個の男と認められている39の男が人前で泣くなど、あってはならないことだ。 それでも私は耐え切れなかった。 翔を喪った哀しみが一気に押し寄せ、私の理性と自制心を突き破っていた。 翔――!! 翔――!! どうして逝った。 私を置いて。 どこにも行かないと言ったじゃないか? 私の側を離れないと言ったじゃないか? アメリカに一緒に行くと。 自分が43になっても、貴方はたったの59だねと笑ったではないか? それなのに、どうして。 23の若さで、何故一人で逝ってしまった。 倖せ過ぎる時には辛い事を経験させられることで、思い上がるなとの戒めがあるのだろうと君は言った。 これが戒めか? 君を奪われるという最悪の罰を受ける程に、私は倖せを貪り過ぎたというのか。 辛い時には楽しいことがあり、絶対に埋め合わせがあるんだと君は微笑んだ。 君を喪った後で、何で埋め合わせろというのだ? 世界中の宝を以てしても万分の一も埋められなどしないのに。 子供のように泣く私の肩を抱いて、ママは良く今までお堪えなさいましたと何度も言った。 「会社を動かしていらっしゃる時ですものね、簡単に泣ける時間などなかったのは判りますわ、でもよく……よく今まで、貴方はお一人で……」 必死に涙を収め、私は声を絞り出した。 「済まない……こんなつもりでここに来た訳ではなかったのに……みっともないな、40前の男が。翔はきっと笑っているだろう」 「何を仰有いますの、泣きたい時に歳の区別がありますか、ましてあれだけ大切になさっていた彼のためですのに」 世の非情も、愛する者の死も知っている彼女の心からの慰めは、同じ苦しみを今味わっている私の心に届き、傷を少しでも癒してくれた。 私が何も言わずとも、彼女はそのスカーフを、お持ち帰り下さいましと頷いた。 翔君も、思い出の品はきっと貴方に持っていて欲しいはずですからと。 三人でそうやって嘆き尽し、彼の思い出話を語り尽した後で、私は彼女達に見送られて、『鼓』を後にした。 酒代としてカードを出した私は、精算してくれるよう頼んだが、休業中だからと、ママは一切受け取らなかった。 ※ ※ ※ 年末の冷気が、人通りもさすがに少なくなった深夜の銀座の通りに降りている。 25日に雪は降り止み、もう街路のどこにも残っていなかった。 コートの襟を合わせ、ぽつぽつと歩きながら、沙耶がハンカチの向こうから発した途切れ途切れの言葉を思い出していた。 「翔君、東城さんがいらした後で、お店を閉める時に『僕って神戸にいたのに、東城さんを見たことなかったんです、すごく素敵な方ですね』って私に言ったんですよ。『あら、男の翔君でもそう思う? 東城さんは皆の憧れなのよ』って教えたら、素直に『僕も憧れます』なんて答えるから、皆でもう大受けして……」 「私、それまであの子が神戸出身なんて聞いたことがありませんでしたのよ、ですから貴方を『神戸の方』と紹介したんですけれど……判らないものですわね、地元で一度も会わなかったのに、遠く離れた所で、人がこんなにたくさんいる東京の中で知り合うなんて。人と人というのはそうやって出会うものなのだと言われたら、それまでですけれど」 それに私は答えた。 彼と会えたのは偶然の積み重ねと見えるが、結局はそれらの一つ一つも必然だったのだろうと。 出会い、そうして彼を奪われるのも必然だったのだろうか。 ではその向こうにある物は何なのだ。 彼を奪われるのが必然というなら、それは何の為の必然なのか。 立ち止まり、天を仰ぐ。 全てが判らなくなった。 彼と愛し合ったのも本当に必然だったのだろうか? 彼を知らなければ私はこんなに苦しまずに済んだのに。 いや…… 翔を得た時、私は彼無しでは生きられないと思った。 彼でないと心は癒されず、彼と共に生きてこその自分だと。 渇き切っていた私の人生に、彼は再び明るい光を灯してくれた。 人として死は免れ得ない。 必ず片方が取り残されるようになる。 ならば、35年を虚しく過ごした私を哀れんだ神から与えられた慰め、それが彼だったのか。 一生消えない記憶を私に刻み込ませ、人生の至福を教え終わると、再び御許に呼び戻し給うたのか。 神など信じたことのない私だが、そう考えることでしか己の心を宥める術がなかった。 宗教とは畢竟、人の情熱と哀しみが生み出した結晶なのかも知れない――
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