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10
翔が全てを承諾してくれた1週間後の12月20日、父には私のアメリカ行きだけを告げた。
もちろん、ゼロアワーの件は一言も触れず。
私が翔の後を追うのだと思った父は、お前がそこまで馬鹿とは思わなかったと激怒した。
「東城とは今ここで縁を切れ、お前など知らん、すぐに勘当させる!」
「お好きなように――貴方の跡目を継ぐ気など、始めからありはしませんでしたから」
「孝之!」
「弟たちで充分跡は継げるでしょう。私は向こうで永住権を取るつもりです、日本には帰りません」
「そこまであの若造と手を切らないなら、私にも考えがあるぞ」
「彼に少しでも危害を加えようものなら最後、私が貴方を直接この手に掛けて差し上げます」
倣岸に言い放った私の宣告は、父を愕然とさせた。
「この……親不孝者が」
「親不孝? ならば貴方はさしずめ子不幸といった所ですか、息子の将来はいいようにする、私どもの面前で母以外の女性たちを平然と愛人にする。貴方のそんな姿を見るのはもううんざりです、さっさと縁を切って頂いた方がこちらもありがたいのですよ。明日にでも弁護士を立てて、法的な手続きに入りましょう」
待てと大声を上げる父を無視して、私はその足で関西空港に向かった。
東京でゼロアワーの指揮を取るのと、翔が青山学院大学で開かれている日本金属学会に聴講者として参加しているためだ。
翔は私の上京に合わせてホテルから必要な荷物を持って来て、赤坂の私のマンションに移って来た。
会社でホテルの領収書を経理に出さなければならないとのことで、渋谷駅近くのシティホテルには一応部屋は取ったままだったけれども。
久しぶりにそこで過ごす年末は、私たちが初めて結ばれた3年前の季節を思い出させた。
学会は24日まで開かれており、彼は私のマンションから銀座線に乗って渋谷に行くことにしていた。
「1年来ないだけで、渋谷もずいぶん変わってたよ。東京って本当に毎日変化しているんだなあ」
「そうだね、東京とニューヨークは訪れる度にそういう印象を受ける街だ」
学会の分厚い要項集を抱えて帰って来た翔に、私はそう答えた。
ぱらぱらとそれを捲りながらジャスミン茶を飲んでは、アメリカに渡った時の事をしきりに考えている。
「英語ももっと上手にならないといけないね。貴方に習わなくちゃ」
「君ならじきに私を追い越すさ」
言いながら要項集を膝から取り上げて、将来の計画に夢中な彼の唇を奪っては、私は毎日彼と愛し合った。
翔も、学会では会場をはしごして構内を歩き回らなくちゃならないんだよと苦情を言いつつも、私と同じ情熱と烈しさで受け入れた。
その年の東京は雪が例年より降りやすいようで、断続的に空から舞い降りていたが、学会最終日に近付くにつれて本格的に積もり始め、23日の朝にはすでに5センチ程度の積雪となった。
それを見ながら、学会も終わるし、クリスマスイブだしということで、明日は銀座の和光前で待ち合わせて食事でもしないかと提案すると、翔もいいねと笑って賛成した。
「学会が終わるのは16時だから、うーん、イブだから駅までの道はすごく混んでいるだろうなあ。青学から駅まで30分、銀座線で出て銀座まで15分弱と見て……17時はどう?」
「ああ、私も仕事が早めに終わるから、それで丁度良いよ」
二人で決めると、翔は嬉しいなと零れんばかりの笑みを向けた。
「元々、僕が和光に母のプレゼント買いに行かなきゃ、貴方とは会えなかったんだよ。だから和光は特別な場所だよね」
「そうだな」
25日にゼロアワーのゴーサインを私がアメリカの部下に向けて発する計画になっており、24日はそれの最終確認だった。
東城の株を分け、支社独立の突破口を作るための株式市場操作の開始日だ。
翔には仕事のことは言っていない。だから、私が仕事が早めに終るというと、良かったと微笑んだだけだった。
23日の晩は、ほとんど一睡もせずに彼を責め抜いた。
翔もこれまでにないほどに悶えながら、私を求め続けた。まるで狂ったように。
二人して何かに取り付かれたかのように縺れ合い、共に昇り詰めた時の瞬間の至福は、快楽に理性が融け切ったこのままで、正気に戻れないのではないかとさえ思えた――
※ ※ ※
雪が降り続いた空の夜明けは暗く、短い睡眠を取ってから起きたイブの朝も、窓の向こうは灰色だった。
「会場は暖房が入っているからいいけど、駅から歩いて行くまでの距離が嫌だなあ」
翔は睡眠不足の顔で朝食を取った後で、コートを羽織りながら外を見てぼやく。
着ているスーツもカシミアのコートも全部、私が仕立てさせてプレゼントした物で、ネクタイも就職祝いのときに贈った品だった。
「クリスマスイブだから、貴方に貰った物で統一したくて、スーツも持って来たんだ」
コートのベージュ色に合わせて自分で買ったバーバリーのマフラーをしっかりと襟足に巻きながら、翔は子供のように笑った。
「良く似合うよ……帰ってから脱がせるのが惜しいな」
「もう」
額と唇に出掛けの軽い接吻を与える私の科白に、翔は軽く睨む。
睨みながらこちらに伸び上がり、腕を回して深い接吻を求める彼に、私も応える。
ここ数日、学会に行く彼を送り出すたびに繰り返される光景だった。
「終わるのが待ち遠しいな。多分今日は身を入れて発表を聞けないと思うよ」
「こら、出張旅費で来ているんだから、ちゃんと聞いて来るんだぞ」
「はーい」
悪戯っ子のように彼は返事をして、行って来ると手を振った。
「僕の方が先に着いたら、銀座駅の出口の近くで待つよ。もし遅れそうになったら携帯で連絡するから、待ってて」
「判った……多分私の方が早いと思うが、少々遅れても心配は要らないよ、待っている」
翔はもう一度笑うと、気を付けてと私が呼び掛けるのに頷き、ビジネスバックを抱えてドアの向こうに消えた。
※ ※ ※
友樹もちょうど出張で東京に来ており、昼過ぎにこちらに顔を出して来た。
「彼もこっちに居るんだって?」
「そうだ、青学で開かれている学会に出ている」
「やれやれ、恋人たちのクリスマスってか」
今夜の私の予定を察し、友樹は明るく笑った。
「俺と来ちゃあ明日まで会議さ、この色気のなさは嫌になるな」
「下らんことを言っていると、お前の嫁に言い付けるぞ」
「勘弁してくれよな、自分が幸せモンだからって」
私の微笑を見て、友樹も穏やかに笑った。
「良かったな、お前。昨日たまたま電話したらさ、一緒にアメリカに行くと孝之が抜かしおったと伯父貴は怒っていたがな、俺はそれで良いと思うぜ。お前たちが選んだ道なんだ、もう迷わず行けよな」
「ああ」
「彼と会ってからのお前は変わった、いい意味でな……そういう出会いを一生持てない奴も多い中で、お前は運が良かったよ」
「この歳になって、まさかこうなるとは思っても見なかったけどな」
「今までの埋め合わせさ――お前は良くやって来たよ、本当に」
私もしみじみとこれまでの時を思い返した。
味わい続けた空虚感と絶望を埋め合わせて余りある存在、それが翔だった。
今の私は、彼がいるからこその私なのだ。
今日は良く降るなと友樹は窓の外を眺めて呟き、俺は一人で酒でも飲んで寝るさとわざと膨れたように言うと、笑顔で自分の会社に戻った。
※ ※ ※
16時過ぎに、翔から、「今終わったから、大学を出てそちらに向かうね」と携帯に連絡があった。
混んでいるし雪で滑りやすいから気を付けるようにと念を押すと、うん、判ったと素直な返事が返って来た。
本社ビルから和光までは歩いて10分程度だ。
17時を待ち遠しい思いで待ち、私は和光前に5分前に到着した。
翔はまだ来ていなかったが、気にはならなかった。
イブ本番、やはりカップル連れが多く、皆の顔は幸せそうに輝いているように私には見えた。
翔もきっと傍目から見ても判るくらいの、溢れるような笑顔で遣って来るに違いない。
そう思って、私は銀座線の出入り口から出て来る群衆の中から彼の姿を見付けることに集中していた。
17時が過ぎ、5分、10分と経ったが、彼はまだ現れない。
銀座線から出て来る人の波は益々増える一方なのに、あのコート姿はどの波の中にも居ない。
どうしたのだろう?
彼は時間はきっちり守る子だし、遅れるなら連絡を前もってして来る。
この雑踏の中、携帯が鳴ったのに気付かなかったのかなとポケットから出して見たが、液晶画面に不在着信は出ていない。
翔の番号を押したが、出なかった。
地下鉄にすでに乗っていて、電波が届かないのかも知れない。
私に連絡する間も惜しんで急いでいるのかも知れない。
渋谷駅周辺は大混雑しているだろうから、電話も掛け辛いのかも知れない。
そう思って、手に携帯を持って、掛かって来たらいつでも出られるようにしていた。
だが17時20分を過ぎた辺りから、胃の辺りが不安で重くなって来た。
何だろう?
こんなに遅れるなんて、地方から出て来て慣れていないというならともかく、東京に4年間暮らして来て、都会の交通事情や雑踏を良く判っている彼には有り得ないのに。
そして17時30分が過ぎ、私の頭が不安で完全に占められていたその時、携帯が着信音を告げた。
はっと手元を見ると、翔の番号だった。
どうしたんだ、本当に。人を心配させて。
そう思って、安堵で力の抜けた声で「翔、どうしたんだ」と出ると、彼とはぜんぜん違う、中年の男の声が聞こえて来た。
『東城孝之さん、ですか?』
「……? ええ、そうですが」
何だこれは。
誰なのだ、この男は。
混乱しながら答えると、電話の向こうの声は「渋谷警察署交通課の田中と申します」と名乗った。
交通課――
私が『事故』という言葉を思う前に、相手が言っていた。
『1時間程前、渋谷駅近くの横断歩道で、道路を渡っていた集団に雪でスリップした車が突っ込みまして。松元翔さんも、それに巻き込まれたお一人で――』
雪で、車がスリップ? 横断歩道を渡っていた集団に、突っ込んだ?
何だ、それは。
「それで、彼は……」
『都立病院に運び込まれましたが、残念ながら死亡が確認されました』
遠くなって行く相手の声を無視して、携帯を切った。
こんなことがある訳がない。事故だなどど、よりにもよって、今日、この日に。
そこで卒然と思い出したのは、父の言葉だった。
――私にも考えがあるぞ――
ふざけるな!
他の人々をも巻き込んで、何が考えだ!
何という人でなしだ、貴方は!
心の中で叫んで、人の波を掻き分けて公衆電話ボックスに走った。
携帯では声が遠くてもどかし過ぎたからだ。
テレホンカードを壊れんばかりに差し入れ、神戸の屋敷の電話番号を押した。すぐに出た使用人に、父を出せと怒鳴った。
私の剣幕に使用人は大慌てで父に代わった。
『孝之か、何だ』
「何だじゃありません! 貴方は何という人だ、これまで大概の貴方の遣り口には黙って来ましたが、今回のこれは最低だ!」
『落ち着け孝之、何を言っているのだ』
「これが落ち着いていられますか、翔だけでなく、彼と一緒に横断歩道を渡っている人々の中に車を突っ込ませるなんて、尋常の人間の仕業じゃない! たった一人を狙うために大勢を平然と巻き込むとはどういうことです、人間として恥ずかしくないんですか、それが仮にも東城の総帥を名乗る方のやることですか!?」
父もそこまで聞いて私が何を言っているのか判ったらしい、馬鹿を言うな、気が狂ったのかと厳しい声で返して来た。
『お前は私を何だと思っている、そんな事をする訳がないだろう! 何を見てそんな馬鹿なことを思い付いたんだ!』
ひとしきり父も私に怒りをぶつけてから、おいっと声音を変えた。
『待て、孝之! もしかして松元翔が横断歩道を渡っている所に、車が飛び込んだのか?』
父の声は打って変わって狼狽えていた。
本気で驚き、まさかと言った声を上げていた。
……違う……
父の差し金じゃない。
私はようやく気付いた。これは偶然の悪夢なのだと――
『孝之! どうした、答えろ! まさか彼は、松元翔は亡くなったのか!? どうなんだ!』
駄目だ……
立って居られない……
『確りしろ、孝之、確りするんだ! すぐにそちらに友樹を寄越すから!!』
ずるずると壁に背を預けた私の耳に、父の絶叫が遥か彼方で聞こえていた。
ボックスから外を見上げる私の目に映る、暗い空。
手の届かない灰色の天空からは、雪は相変わらず地上に降り続けていた……
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