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11
どうやってタクシーを拾い、都立病院に向かったのか、覚えていない。
重傷者15名の中で死傷者は翔一人だけと、翔を含めてこの病院に搬送された7名の怪我人の手当てに走り回っている看護婦から知った。
その時、父から連絡を受けた友樹が息せき切って玄関から駆け込んで来た。
「孝之!」
黒いコート姿の彼は看護婦と話している私の姿を見るなり叫んだが、彼も完全に狼狽え、動揺していた。
私の心はきっとすでに死んでいたのだろう。
焦点の定まらない瞳で従兄弟を見遣る私の肩を彼は掴み、確りしろと震える声で言った。
確り?
私は確りしている。
お前達の方が余程おろおろしているじゃないか。
ひんやりと思考がはっきりしている頭の中で、そう思った。
私に代わり、彼が看護婦に説明した。
「我々は松元翔さんの関係者でして――彼の会社の者です、報道を聞いてこちらに駆け付けたのですが、彼は、どちらに」
看護婦は同情を隠さず、霊安室に安置させて頂いておりますと答えた。
警察関係者に私達は名刺を渡し、確かに友樹が彼の会社の重役だと知ると彼らは頷いて、翔の死を確認したドクターを呼んでくれた。
救急担当主任の渡部ですと名乗った白衣の医師は、もう大分白髪も混じった、50代前後のベテランだった。
他の重傷者は命に別状はないとの事で、手当ては一時的に他の若い医師に任せ、彼は私達に丁寧に説明した。
「死因は頭部強打による脳内出血で、外傷も皆無です。警察の方から伺った所では、彼は折り重なった人の中に挟まれた形になったそうですが、その際に頭を打ったのですね。冬ですから厚着で、コートも着ておりますし、後ろにも人が居たのですから助かった可能性もあったかも知れませんが、偶々打ち所が悪かったとしか申し上げようがありません。こちらに運び込まれた時には、彼はすでに完全心肺停止を起こしておりました」
「……意識があるまま、亡くなったのでしょうか?」
私の問いに、医師は何を聞きたいのか察し、更にそういう事を聞く人間が死者に対してどれだけ深い感情を有しているかを知っているのだろう、首を静かに振った。
「いいえ、X線で見たあの出血状態では、即死に近かったはずです――彼はあっと思う間もないままに亡くなったであろうと、私は申し上げられます」
朦朧とする頭で、私はその言葉を耳にしていた。
彼はきっと最期まで、私が待っている事に胸を弾ませて歩いていたに違いない……
遺体を見せてくれというと、医師が先頭に立って地下まで案内した。
すでに遺体は看護婦達の手で整えられており、白い布が掛けられた側で、焼香の煙が静かに漂っていた。
渡部医師が、そこに横たわっている人の顔から布を取った。
白い顔。
細い鼻筋。
端正な唇、凛とした眉、濃い睫。
幾度となく目にして来た筈の、彼の寝顔だった。
だがそれは、生命のない肉体が享受している、死の睡りを漂っている顔だった……
不思議と涙は出なかった。
頭の中は澄み渡り、足はしっかりと床を踏み締めていた。
私は目を見開いて、彼の遺体を眺めた。
背後には友樹と渡部医師、それに警察関係者が2名居たが、私は振り返り、5分程この場を外してくれと頼んだ。
「孝之」
「東城さん」
皆は一斉に声を上げて止めたが、友樹は私の気持ちを察し、申し訳ないが彼の言う通りにしてやってくれないかと告げた。
私達の名刺を見て、我々がどういう地位の人間であるかをすでに知っている警官達は、馬鹿な事はしないだろうと判断したらしい。
では5分と頷いて、友樹と一緒にドアの外に出た。
※ ※ ※
これが最後の、彼と二人きりの時。
彼はこれから神戸の実家に帰り、両親に見守られながら葬られることになる。
縁戚でも会社の上司でもない、傍目からは何の接点もない私が彼の側に居られる機会は、今後一切ない。
「翔……」
囁きながら、彼の頬を撫でる。
外傷はなかったとの説明通り、彼の美しい顔にも、手にも、傷一つなかった。
白い喪服を着せられており、私が贈って纏っていたスーツもコートも、遺品としてすでに側で畳まれていた。
私の手が大好きだと言った声。
貴方に頭を撫でられただけで元気が出るんだよと語った笑顔。
こうして両手で顔を包んでいるだけで、彼が「あれ? どうしたの、孝之さん」と笑って瞳を覚ましそうな気がした。
額から瞼、頬、唇に沿って、接吻を与えた。
唇から流れていたであろう血は丁寧に拭われていたが、まだ微かにその間に残っていた。
それを舐め取り、もう一度唇に接吻した。
マンションで最後に交わしたくちづけと違い、もう彼は私に応えてくれない。
唇は冷たく、そして柔かくない。
髪を梳いてやりながら、瞳を閉じている彼の顔を見詰めている時、私の頭の中では何故か、一つの言葉が繰り返し繰り返し鳴っていた。
――主よ、主よ、何ぞ我を見棄て給いしや――
神に見棄てられたのは命を奪われた彼か?
それとも私か?
――彼ではない。
私だった。
彼をこの手から奪われた私は、神に見離された人間なのだ。
苦しまずに逝けたであろうことだけが、僅かな救いだった。
彼を待っていた輝ける未来が彼からもぎ取られたことに、私は躊躇いもなく神を詛っていた。
済まない、翔。
君の側にはもう居てやれない。
たった一人で、こんな部屋で、寂しいだろうに。
でも後で君のご両親が神戸から到着すると聞いたから、それまでの辛抱だよ。
言い聞かせるように心の中で囁き、頬擦りした。
『大丈夫だよ――』
そう答える彼の声が、聞こえた気がした。
『ごめんね孝之さん、待ち合わせ場所に行けなくて……貴方と一緒にアメリカに行けなくて、ごめんね……』
良いんだよ、翔。
気にしなくて良いから、ゆっくりお休み。
約束の5分が迫っているから、もう私は行かなければならない。
『いいよ、有難う、来てくれて……気を付けてね』
ああ。
私を見詰めているであろう彼の魂にそう答え、最後の接吻を与えると、私は振り返って彼に限りない眼差しを注いでから、霊安室を出た。
※ ※ ※
その晩、赤坂のマンションには、友樹も一緒に帰った。
私が自殺するのではないかと父ともども危惧していたのだろう。
警察が翔の身元を調べた時、財布に社員証があったので、それで神戸本社にはすぐ連絡が飛んだ。
ただ携帯を確かめると、彼が一番最後に掛けた発信履歴が私の名前が併記された番号だったこと、17時過ぎに私が彼に掛けたのが不在着信として残っていたことから、これは親しい知人であろうと警官が気を利かせ、さらに警察の番号では『知らない番号だ』と出て貰えない可能性が高いと、あえて翔の携帯を使って私に連絡したのだった。
会社には出張許可のスケジュールが提出されていて、24日は出張日程内であり、ホテルも宿泊のままであったことから労災と認定されるそうだが、私にはどうでも良いことだった。
背広を脱いで普段着に着替え、友樹にも私の服を貸した。
一言も喋らない私の側で、彼も黙ってウイスキーを飲んでいたが、少しも美味くなさそうだった。
私は一口も飲めなかった。
食欲など当然あるわけもない。
友樹も腹が空いたとの素振りも見せなかった。
この部屋で一人で過ごせはしない。
私一人で背負うには、この部屋に詰まった思い出は重過ぎる。
彼が居なければ、私はきっと翔との追憶の重みに潰され、今夜の内に命を落としていただろう。
視線すら動かせず、ソファに座って肘を背凭れに預け、顎を支える。
見詰め過ぎて、床に穴が開くのではと自分でぼんやりと考えた。
翔の服も、荷物も、居間に置かれたままだ。
たった今脱いだばかりのように、無造作にバッグの上に畳まれたシャツやセーター。
それを見ても、何の感情も湧かなかった。
ただ、彼の荷物だと。
そう思っただけだった。
泣くという事すら、頭になかった。
思考は完全に停止し、理性は周りを眺める事を拒絶していた。
私の心は壁で取り囲まれていた。
友樹がそんな私を見て、彼の荷物に目を止める。
苦しそうに顔を覆って、必死で嗚咽を堪えていた。
呻くような声が、彼の喉から漏れる。
お前が泣く事はないじゃないか。
私でさえ泣いて居ないというのに。
そうしてまんじりともせず夜明けを待っていた、夜中の3時。
私の携帯が鳴った。
まるで幽霊から掛かって来たんじゃないかという風な顔で、友樹はぎょっとテーブルの上を見遣る。
それを取り上げ、液晶画面を確かめた。
アメリカ支社の部下からだった。
「私だ」
『社長――今から市場で株を売りに出ますが、宜しいでしょうか』
ああ……そうだったな。
今日がゼロアワーの日であり、時差を気にせずとも良いから電話を掛けろと指示していたのを、やっと思い出した。
私は冷静な声で答えた。
「やれ」
『了解』
友樹は、携帯から聞こえる部下の声を横で耳にしていた。
そして、全てを理解した。
「孝之、お前の戦争とは――そういう事だったのか」
電話を切り、無表情に机の上に置いた私に、彼は一層蒼ざめた顔で言った。
私は何も答えなかった。
アメリカ支社の反乱は神戸の東城貿易本社にも直ちに急報として告げられ、父は株を他社に買い取られないよう市場を操作したが、すでに時遅しだった。
支社と呼びこそすれ、経営的には子会社だったアメリカ東城貿易は、日本からの独立の地固めに成功した。
※ ※ ※
麻痺し、疲弊の限界に追い詰められた心には、悲しみは刻まれてもそれを自覚するには大幅な時間を要する。
マスコミはこぞって反乱の指揮を取った私にインタビューを申し込んだが、ノーコメントとして全て断った。
ただし、いつもと変わりなくアメリカ側に指示を与え続けてはいたが。
睡眠時間は日にせいぜい2時間程度だったにもかかわらず、私の頭は明晰さを保ち続けていた。
だが、食事は食べられなかった。このままではいけないと無理に食べようとしても、すぐに吐いてしまった。
ベルトは2サイズ落ち、体重も日に日に減る一方だった。
マンションにも居られず、翔が居なくなった翌日から近辺のシティホテルに移り、そこで寝泊りした。
翔の死から3日後の、12月27日。
会社から帰ってホテルの部屋に入ると、ふっと人恋しくなった。
誰か翔のことを語れる話相手が欲しかったが、友樹は会社もあるため、心を残しながら私を東京に置いて、すでに神戸に一足先に帰っていた。
誰か居ないか……
この東京に……
そこまで考えて思い付いたのは、『鼓』のママだった。
ママを始めとして、『鼓』の古参メンバーの数人は我々の出会いの経緯を当然知っている。その後も私が翔を伴って頻繁に店を訪れたことから、私たちの関係も察していた。
友樹以外では唯一の理解者と言える人々だった。
彼女もニュースの報道で渋谷の事故は知っているだろう。
そう思いつつ『鼓』に電話を掛けると、以前から勤めている、沙耶と呼ばれる女の子が出た。
『まあ……東城さん』
言ったきり、沙耶は言葉を詰まらせた。
『ママは、ニュースで聞くなりお店も臨時で閉めてしまって……今でも毎日泣いてるんです……私たちも』
「今からそちらに行きたいんだが、良いかな」
『ええもう、勿論です。お店は閉まってますけど、私がいますから、どうぞおいでになって下さい。ママにも連絡しますから』
「ありがとう」
電話を切るなりホテルを出て、私は銀座の『鼓』に久しぶりに行った。
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