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年末にアメリカに渡る予定だったが、翔の事故後、私はその予定を年明けに延ばしていた。 神戸に先に帰った友樹から彼の家の様子を聞きたいこともあり、ひとまず実家に帰った。 一族の間では私の行動は賛否両論だったが、元々父の傲慢さに皆は反発を覚えていたようで、概ねは好意的な反応が得られた。 それらにも私はそうかと思っただけで、賛成を得たところで嬉しくも何ともなかった。 遺品として引き取った翔の携帯の着信履歴、発信履歴に圧倒的に私の名前が出ていることに、彼の両親はやはり首を傾げたようだ。 事故後すぐに病院に現れた男達が東城の名字を名乗ったことと、更にその時に警官に渡した名刺。 それらから、電話の名前は確かに東城家の人間だと判りはしたものの、なぜ私と彼が、遺体確認すら申し出るほどに――彼の会社の重役の一人が私の従兄弟とは言え――親しいのかはどうしても理解出来ず、渋谷警察署の田中巡査にも尋ねたらしい。 だが彼とて知る由もなく、判りませんと答えるのが精一杯だったそうだと友樹は私に言った。 「説明しないのか?」 友樹は言ったが、私は首を振った。説明した所で彼の両親をますます混乱させるだけだ。 自分達の息子がその男の恋人だったなどと今更聞いてどうする? 彼らは感情のやり場に困るだろう。 謎は謎のままで終らせた方が良い場合もある…… 両親とも、可愛がっていた息子の突然の死に相当力を落としていたようだ。 ならばその哀しみに余計な横槍を入れる事もないだろう。 和光で待ち合わせようなどと言わなければ良かったと、私は何度も後悔した。 けれどそれは避けられなかったと、今にして思う。 渋谷駅には彼はいずれにしろ、向かわなければならなかったからだ。 私のマンションに帰るにしても、駅近くに取っていたホテルに帰るにしても。 実家に帰るなり、父は私の起こした行動のために、これ以上ない程にむっつりした顔で出迎えた。 アメリカに行くと言いだしたのも本当はこれだったのかと、黙って私に問い掛ける。 しかし口まで出掛かったであろう罵倒と非難の言葉は、私の憔悴の前にさすがに閉じられた。 母と弟は、私が何故こんなに窶れているかを知らない。今度のゼロアワーで無理をしたのかと想像したようで、心配していた。 何も気にしなくて良いとだけ言って私はその視線を避け、部屋に閉じ籠って渡米の荷物を整えていたが、大晦日になって父に呼ばれた。 ※ ※ ※ 「痩せたようだが、食事は取っているのか」 それが父の第一声だったが、私は醒めた声で答えた。 「勘当の為の弁護士は立てて下さったのですか。私はいつでもここを出て行く準備は出来ていますが」 父はじろりと私を見遣り、相変わらず素直でないなと苦々しい声で言う。 「貴方相手に素直になれる人間が居れば教えて頂きたいですね。貴方もご満足でしょう、もう彼は亡くなったのですから」 「いい加減にするのだ、不慮の事故で亡くなった若者の死を喜ぶほどに私は人非人ではないつもりだ」 死はその本人に対する感情を寛大にするものだが、生憎私はそれを偽善だと感じる男だ。 死んで受け入れる位なら、何故生きている時から受け入れなかったのかと。 謝る位なら始めからするなというのが私だった。 謝られる位なら、たとえそれがどれほどの過誤だったかを知っても、謝られない方が救われる場合もあるのだ。 何度も言うが、私と父は似た者同士だ。 だからそんな息子の頭を見透かしたかのように、父は鋭い瞳で私を見据えた。 「彼が死んだから赦したのではない、川匡から彼との経緯を聞いたからだ――私がそれを耳にしてどう思ったかを言うのは差し控えよう、お前には慰めにもなりはすまいからだ」 その通りだ。 いまさら、良い青年だったと父に認めて貰った所で、何にもならない。虚しいだけだ。 心の中では過ちを知っても、どこまでも父らしく、敢えて我々の仲を受け入れない姿勢を保って貰っていた方が、私の心も楽なのだ。 「川匡から彼との話を聞きたければ聞くが良い。あれは秘書室にいるはずだ」 「………」 「一つだけ言って置く。川匡は彼の事故死の報を聞いた時、泣いていたぞ」 あの冷静な女史が? 私も驚いたが、背を向けた父の肩も、心なしか落ちているようだった。 息子の突然の背叛に衝撃を受けているのだろうとだけ私は思い、それ以上は何も言わず、女史に詳細を聞くために自分の部屋に戻った。 ※ ※ ※ 女史は本社の社長室に来た時と同じ、氷のような雰囲気を纏ったままやって来た。 濃い藍色のスーツ姿で、アクセサリーの類も一切付けていなかった。 この度はと私に挨拶したが、私はそれに軽い会釈で応えただけで、言葉は返さなかった。 彼女をソファに座らせ、私は机の椅子に腰掛け、切り出す。 「以前には聞きもしなかったし、君も言わなかったが――翔と話した時の詳細を教えて欲しい」 「会長からお聞きになられたのではないのですか」 「君から教えてもらったと言っていたが、細かい内容は何も」 「松元翔自身も、貴方に何も説明しなかったと?」 「『君に会ったから、私と別れないといけないと知った』と話していたが、それだけだ」 女史は重い溜息を吐いて、両手を握ると、彼女にしては珍しく視線を落として、低い声で語り始めた。 「会長の代わりに彼に会ったのは、8月の終わりです。会社から地下鉄の駅に向かっていた彼を呼び止めて私の名刺を渡し、確かに私が東城会長の秘書であると納得して頂いた上で、お話したいことがと申し上げますと、彼は貴方様のことだと気付いて、頷いたのです。夜の9時頃でしたし、他人の目と耳は避けたかったので、日本料亭に場所を変えました」 座敷に通された翔は女史の目線をしっかりと受け止め、怯えも不安もなく、真っ直ぐ顎を上げていたという。東城の壮年の重役たちでさえ彼女を恐れ、まともに視線を返せる人間などほとんど居ないというのに。 そして、自分をこうまでして呼ぶからには大切な話ですねと、自分から口を切った。 「私は単刀直入にお尋ねしました、貴方様との事は本気なのかと。彼はそうですと答えました。『同性同士ですわ、それにお歳も離れていらっしゃる』と畳み掛けますと、『だから何なのです?』と返されまして……私も驚きました」 このまま私の存在に一生引き摺られるつもりか、結婚もしないでと詰め寄る女史に、自分の人生なのだから貴女には関係のない話でしょうと、翔は決然と言い放った。 他人に判ってもらえなくても良い、私に自分の気持を知ってもらえているのだからそれで充分だ。 もし己の存在が私のためにならないと知った時は、喜んで身を引くと。 軽々しい恋愛などとは微塵も呼べない、純粋で深い彼の愛情に、女史も心を動かされたようだった。 「それまで私は、彼が貴方様から離れないのは東城の後継者である御曹司だからだと思っていましたので、意外につぐ意外だったとしか申し上げようがございません。前調査の段階で、貴方様が彼にさほど贈り物もなさっておられないのに、どうして彼は大学時代もずっと一緒だったのかと、首を捻ってはいたのですが」 「君とて金のために父の側にいる訳ではあるまい。それなのに彼の愛情の本質を見抜くのが遅かったのは、手抜かりだったと言えるな」 私の挟んだ科白に、女史は口元に影のような微笑を掠らせただけだったが、それは然りと示していた。 自分の存在が為にならなければ去ると言った返答と、私が父にすでに宣言していた、『彼が自分を見切らない限り別れない』という科白と併せ、女史は戦法を急遽変更し、説得に切り替えた。 それから後は私が以前に聞いた通りだ。 私を取り巻く背景や父との確執を説明し、彼の家族のことも含めて一言一言噛み砕いて彼に述べると、翔は完全に理解し、唇を震わせた。 別れなければならないからかと女史がさり気なく探ると、彼は首を振った。 「『自分のせいであの方をそこまで追い詰めていたのに、それに気付けなかったのが情けない』と。『自分よりもずっと大人のあの方に、いつも庇われてばかりで何も出来なかったから、別れることで少しでもあの方が楽になれるなら、そうします』、彼はそう言いましたけれど……あのように辛そうな表情というものを、私は見たことがございません。彼を破滅させてはならないと完全に思ったのは、その表情を目にしたからとも言えます」 恐らくそれは、おいでと促しても動かなかった――動けなかった時の表情と同一の物だっただろう。 心の激情を抑えながらも零れ落ちる悲痛と愛情に苛まれ、崩れんばかりの瞳をしていた彼。 このまま逢えなかったら辛過ぎて死んでいたかも知れないと、彼は私の腕の中で呟いた…… 切り裂かれそうな心から引き出した言葉は、私以上に発した彼自身の心を刺し通していたのだ。 彼を護れなかった私が悪いのに。 そんな事を言わしめた私こそが責められるべきなのに。 翔…… 何故、何も言わないまま逝った。 一言も責めず、一言も詰らず。 「彼は、自分が憎いと仰有るなら会長に直接お会いして、貴方は何も悪くないと申し上げるとまで言いました。けれど私は、会長の性格を知らない彼が会っても傷付くだけだからと押し止めて、別れたのです。それから以降は、貴方様もご存知の展開ですわ……よもやこのようになるとは、思いも致しませんでしたが」 このようにとは、翔の事故死のことを言っているのだろう。 私だって思いもしなかった。翔本人とて。 見えない先ばかりを思い煩うのもどうかと友樹は言ったが、これは予測すらしていなかったし、出来なかった。 たかが人間の思惑を運命は遥かに超えて、苛酷な鞭を我々に与え続ける。 父も女史からこの話を聞いて、同じ絶望に打ちのめされたのか。 だからあのように肩を落としていたのか。 女史も無言のままだったが、私が先を促さないので立ち上がった。 「翔のことを聞いた時、君は泣いてくれたそうだね――有難う」 彼女の背中に最後にそう呼び掛けると、女史は俯き、返答はないまま足早に秘書室に下がった。 ※ ※ ※ 東京のマンションも、神戸のマンションも引き払った。 彼の持ち物は両方の部屋に残っていたが、思い切って全て処分した。 どうやってこれらの部屋で暮らせというのか? 事故から2週間経って、赤坂の整理が一段落付き、神戸のマンションに入った私は、そこに遺っていた彼の薫りにまた涙を誘われ、声を殺して泣いた。 彼が使った整髪料、彼が使ったコップ。 服がない時に私が貸したシャツ。 最近ではこちらの方にほとんど来ていた分、それだけ彼の居た跡が鮮やかに留まっていた。 最後に二人で過ごした赤坂では、渡しそびれたクリスマスプレゼントを前に一晩中泣き明かし、もう涙など出ないと思っていたのに、これはどうしたことだと自分で止めつつも、神戸でも私は瞳を泣き腫らした。 『鼓』で泣いてから、涙腺はすっかり鍵が外れたようで、ふとした瞬間に涙が滲み出ることが多々あるようになっていた。 それでも仕事を投げ出す訳には行かない。 1月15日には渡米できるよう、飛行機も予約した。 彼の荷物を整理した所で、心まで整理がつく訳がない。 それに彼の思い出は至る所に詰まっている…… 彼が私の誕生日に贈ってくれたネクタイ。 初任給の時も、彼はまず一番に私にプレゼントを持って来た。 初ボーナスが出たからと買って来たダンヒルのカフスボタンを仕事に付けて行く時、危うく私は涙を零しそうになった。 翔が手ずから嵌めてくれた時のことを思い出したのだ。 彼の笑顔。 彼の泣き顔。 彼と一緒に居る時には思い出さなかったことまでが、次々に記憶の底から強く浮かび上がって来て、私を圧倒する。 渋谷で事故を起こした運転手がどこの誰で、どうなったかなど知らないし、興味もない。 その人間が罰された所で、たとえ死刑になったとしても、翔は戻って来ないのだから。 私には、翔が今ここにいない、そして二度と戻って来ないということが全てだった。 そうだ、彼は二度と私の側には戻らない。 記憶を辿ることでしか、彼に会えない。 夢の中で何度、和光前に姿を現す彼に会っただろう。 「ご免、待たせちゃったね、道がすごく混んでて」 笑いながら駆け寄って来る彼を見る度に、私は『何だ、あれは夢だったのか、君はこうして来ているじゃないか』と思った所で―― 目が覚める。 飛び起きて傍らを見ても、彼は居ない。 私の懐にもぐり込むようにして寝るのが好きだった、翔の寝姿は…… アメリカでの永住権を獲得するべく日本を去ると母と弟に告げると、三人は懸命に引き止めようとした。だが支社を自分のビジネスの本拠地として動くからだと説明し、たまには帰るからと宥めた。 父の方は、何も言わなかった。 勘当云々の話はその場の勢いみたいな物だったからそのまま立ち消えになっていたものの、こうして背いた私を一生許さないという決意がはっきりと出ていたから、気にはならなかった。 上の弟に、日本における東城のトップが譲られるのは確かだった。 友樹は仕事で年に何度もアメリカに滞在する。私もろくな挨拶もせず、行って来るからこちらにも遊びに寄ってくれと伝えただけだったが、彼は今回のことで、随分辛がっていた。 口には出さないけれど、彼のその口惜しさは私にも充分伝わって来て、『こいつには迷惑しか掛けなかった』と私は申し訳なく思い、そう告げた。 『いいさ……何の力にもなれなかったんだしな』 友樹は電話の向こうでほろ苦く笑ったが、それ以上何も言わなかった。 言いたいことは山ほどあったと思う。だが私の心を尊重して、『向こうでは身体を大事にしろよ』とだけ言ってくれたに留まった。 1月15日。 私は全日空機で渡米した。 本来ならば希望に胸を膨らませて乗っていたはずの旅路。 今は哀しく辛い思い出から逃れ、仕事という義務のためだけに向かっている旅路だった。
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