epilogue

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epilogue

失意だけを抱えて踏んだアメリカでの2年間は、翔を喪ったことと引き換えであるかのように、会社の独立化がとんとん拍子に上手く行った。 私は日本の東城からは離れて、一介の企業家として海外で成功を収めるようになった。 心の痛みを忘れるために無我夢中で仕事に没頭したその年月は、瞬く間に過ぎて行った。 部下達は日本人と現地のエリートネイティヴ達が混在しているが、彼らも良くついて来てくれるし、日本の影響を受けずに自分たちの力で伸び伸びと仕事出来るのが楽しそうな様子は、率いている私にとっても、見ているだけで嬉しい光景だった。 「ムッシュウ=東城は結婚はなさらないのですか」 パーティーや商談の合間の雑談に周りからよく聞かれたが、その度に私はいいえと首を振った。 この地で一緒に生きようと約束したただ一人の伴侶が、日本を旅立つ直前に事故で亡くなったからだ、と。 だから誰とも結婚はしないと。 ロマンス好きなVIP連の夫人達は、まあ何というお気の毒なと心底同情してくれたが、その相手が実は16も年下の同性の青年だったと聞いたら、きっと眉を顰めただろう。私は性別が明らかになる代名詞をわざと用いなかったからだ。 部下の中にも何人か同性愛者は居ることは知っていたが、私は他の企業経営者と違って、黙認していた。 自分に相容れない物――性格であれ、スキルであれ――を部下が持っていた場合、上司が彼らに攻撃を加えるというのはよくあるパターンで、実際異質な物を受け入れられる人徳者の方が世の中には少ない。 それが当たり前だ。 私が彼らを黙認していたのは翔との関係が齎した寛容性と仲間意識に他ならず、彼らは自分たちを認めるのは同類だけというのを嫌というほどに体験して来ているから、私に親近感を持ち、中には秋波を寄越す青年さえいた。 そもそも、金も地位もあるのに独身というのは、それなりに魅力らしい。 件のVIP連の夫人達の中にも意味有り気な視線を向けて来る女性は何人かいたし、青年たちにしてもそれは同様で、うんざりさせられた。 その度にマンハッタンのマンションに一人帰っては、『翔、どうやら“たった59歳”というのは本当なのかも知れないよ』と胸の中で彼に笑い掛け、声に出して呟きさえした。 引き出しの中に入れてあるスカーフと、彼の写真を取り出しながら。 記憶を繰り返し思い出す内に、私は彼を心の中に住まわせ、生かすようになっていた。 その面影に語り掛け、語り合い、二人で会話を交わすのが日常の習慣になっていた。 過去の彼の思索の傾向や性格、言動から創り出した、『彼ならこう答えるであろう』という幻想に過ぎないと言われるかも知れないが、翔はいつも私の想像と予測を超える答えを返してくれた。 確かに彼は私の中で生きていた。 あの都立病院での霊安室での別れでも、気を付けてと言ってくれた声は本物であったと私は確信している。 今でも。 ※ ※ ※ 1年後ではまだ日本に帰る力が湧かず、2年目となった今年の冬、ようやく私は成田行きの飛行機に乗った。 クリスマスイブのその日は、あの日と同じように雪が降っていた。 時差の疲労も気にせず銀座の和光前に真っ直ぐ向かい、彼を待ったと同じ場所に佇む。 東京は来る度に変わると翔は言ったし、私も同意したものだが、しかしここの場所から見える光景は2年前と同じだった。 行き交う人々の笑顔。 寒さに頬を赤くし、急ぎ足で目的地に向かうカップル。 笑いさざめきながらあるいは携帯を片手に、あるいは大きなプレゼントを抱えて帰る通行人。 そして空から舞い降りる雪…… ポケットには携帯を入れていた。 翔の着信履歴が入っているメモリを消去するには忍びず、私はいつまでも保管し、代わりに新しい番号と機種の携帯を取ったので、今持っているのは2年前のそれとは違う。 こうしてコートに両手を入れて立っている私の姿は傍目から見れば、人を待っている風情そのものだろう。 その通りだったのだ、2年前は。 今は…… いくら待っても、彼は来ない。 来るはずもないのだ、彼はもう居ないのだから。 銀座線から出て来る人の波を無意識のうちに目で追っている自分に苦笑し、そして気が付いたら涙が溢れていた。 アメリカに行ってからは、仕事の繁忙と、彼との対話のおかげで泣く回数も減り、ここ一年では数えるほどしかなかったというのに。 こんな所でいい年をした男が泣くなんて、奇異でしかない。 唇を噛み、天を仰いで零れ落ちそうになる涙を必死で堪え、曇る瞳で雪を眺めた。 あの時もそうだった。 電話ボックスから見上げた灰色の空からは、止む事なく雪が降り続けていた―― 『確りしろ、孝之、確りするんだ!』 公衆電話から聞こえていた、父の声が耳元に蘇る。 今になって気付いた。あの時の父は、本当に私を心配していた。 確りしろと繰り返し叫んだ声は、翔を喪った私がどんな風になっているかを察し、少しでも支えようと、少しでも力を与えようとしていた、一人の親としての声だった。 今更判ったそのことに、どうして私たち父子はここまで頑なになっていたのだろうと、一息に肩の力が抜けた。つまらない意地を何年も張り合っていた自分たちが、下らなくさえ思えた。 40にして不惑と言うが、私はまだまだ悟りの域には達さないらしい。 よく生きたと自分に満足して死ねるのは一体何歳の話だと苦笑したくなる。 これではいつまで経っても翔の側に行けないではないか。 『東京に、この大学に来て良かった。この3年を全然無駄にした気がしないんだ、一杯生きたなって、すごく充実感があるんだ』 翔…… 君はどうしてそんなに純粋だったのだろう。 たった23年の生涯で、よく生きたと微笑むことの出来た君。 私は君の将来が奪われたことが口惜しくてならなかった。 君と一緒に生きる私の将来が砕かれたことが辛くてならなかった。 だが、君は命を燃やし尽くし切っていたのかも知れない。 私との絆に躊躇いもなく全ての心を注いで繚乱の華を咲かせ、だからこそこの世に未練もなく逝ってしまったのかも知れない。 潔い君は命をも散らして行ったが、しかし私は死んだ魂の抜け殻を抱えながらも、肉体の命は未練がましく保ち続けている。 何という小さな人間だろう…… 『そんなことはないよ――』 はっと視線を元に戻し、周辺を見回した。 これまでにない程に確かな響きの声が、近くで聞こえたのだ。 日が沈んだ、闇の向こうに。 雪の彼方に霞む、駅の出入り口から出て来る人込みの中に。 コート姿の彼がいた。 最後に送り出した時とまったく同じ、マフラーを首に巻いて、私の贈ったコートとスーツを身に着けた姿で。 『翔!』 有りえないことだ。 理性のどこかがそれを判っていた私は声に出したいのを堪えて、心の中で叫んだ。 だが彼は確かにそこにいた。 人の波の中で立ち止まって、こちらを真っ直ぐ向いて、微笑んで。 あの笑顔は私が何度も夢に見たもの。 私が愛して止まなかった微笑。 彼の懐かしい声が、聞こえる。 『貴方は小さくなんかないよ。貴方は色々なことが出来る人、だから、沢山生きてね……僕のことは気にしないで……待っているからね』 翔―― 本当に待っていてくれるのか。 こんな私でも、君の側に行くのを。 喰い入るように見詰める私に、翔がもう一度微笑んだ。 何の迷いもない、純粋な瞳で。 次に新しい雑踏の集団が銀座駅の出入り口から吐き出された時、そこに彼の姿はなかった。 けれど私の耳には、彼の声が、はっきりと残っていた…… 『待っているから……待っていて良いのなら、僕はいつまでも貴方の側で、貴方を待っている――』 ―Fin―
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