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私達が互いの想いに浸っていた間、どれだけ幸福であったかをわざわざ言う必要はあるまい。 16も年下の、それも同性であるごく普通の大学生を愛するなど、常識からすれば私はおかしい人間の一言で却下される。 けれど私は本気だった。 翔も本気だった。 我々が愛し合った先に何があるかなど、考えても何一つ明るい見通しなどなかったのに、彼は文句の一つも、愚痴の欠片も言わなかった。 私が財産を持っていて、しかもこれだけの年上で。 学生である翔を相手にするからには、さぞかし様々な贈り物をしただろうと皆は思うだろう。 だが私は敢えて何もしなかった。 我々の立場の違いで行けば、そういうやりとりこそが普通の付き合い方なのかも知れない。 西欧で言われる、パトロンというあり方が。 愛情表現の一つに贈り物を贈るというのは確かにある。 私もどれだけ彼にプレゼントを浴びせたかったか。 しかしその行為は金で彼を繋ぎ止めようとしている風にも見えて何となく嫌だったし、何より翔がそれを厭うのは火を見るより明らかだったから、私はそうしなかった。 だからせいぜいでクリスマスや誕生日に服や小さな物を贈るに止め、後は休日に食事をご馳走するという程度だった。 食べ盛りだった翔は、フランス料理よりも中華料理や焼肉に連れて行った方が量を沢山食べた。 細身だが、アウトドアスポーツを愛好していたので、エネルギーの代謝量は普通の青年よりも多かったのだろう。 ※ ※ ※ 二人で愛し合った後、彼はすぐに私の腕の中で眠り込むのが常だった。 その寝顔を眺めながら、彼と私と、どちらがより強く相手にのめり込んでいるのかとふと考えた事がある。 彼が私を見る瞳は、真剣だ。 それは初めて肌を合わせた相手だからと言い切るには、彼は余りにも真剣だった。 「クラブで貴方に会った時、すごく素敵な方だなって……僕、緊張しっぱなしだったんです」 深い関係になって数日後、私の肩に頬を乗せてそう語った時、彼はちいさく笑った。 「『東城の坊はえらい男前や』って、母が以前に言っていたけれど、確かにそうだなって、納得していたんですよ」 「母上はどちらで私をご覧になったのかな? 私は生憎覚えがないが」 「神戸の『東城貿易』の本社ビル前で、貴方が黒い車に乗り込むのを、たまたま買い物帰りに見掛けたらしいです。母親連中ってミーハーなんですよ、早速『東城の長男を見掛けた』って友達に自慢して回っていましたから」 彼女も、よもや上京した自分の息子とその男が、こういう関係になっているとは思いもしないだろう。 そう思うと、彼も同じ事を考えたのか、複雑な響きの混じる声で私の名を呼んだ。 「孝之さん…」 「ん?」 「…いいえ、何でも…」 躊躇い、言い淀んだその先で、彼は一体何を言いたかったのだろう。 訊ねても答えは返って来ない事は判っていたから、私はそれ以上訊かなかった。 東京という、どちらの実家からも遠い地に居るからこそ左程考えなかったが、地元神戸では東城の名は敷居の高い存在として、彼らのような一般の人々からは畏敬の念と共に敬遠されがちだ。 そういう家の跡継ぎと、中産階級の一員である自分の立場の違いを思い出し、彼は一瞬不安を覚えたのか。 いつか捨てられるかも知れない。 金持ちの遊びかも知れない。 これらの不安が当初の頃、彼になかったとは言えまい。 私は勿論微塵もそんな事は考えもしなかったが、しかし彼の周囲を含めた『立場』に立って物を考えようとしても、一連の考察に辿り着くまでにはいつも僅かなタイムラグが生じた。 彼の『心』に沿って考えるのは、自分の事を考えるよりも易しく、翔の感情は私の感情ではないかと思える位に推し量ることが出来たのに。 育った環境や考え方、年齢、現在の社会的地位。 余りにも私達は掛け離れ過ぎていた。 言い訳じみているが、それを切り替えて、瞬時に彼の立場に立って結論を弾き出せと言われても、彼が私の立場に立つのが困難であったと同様、私にも容易な話ではなかった。 それでも、こうした関係になる前から私達が頻繁に一緒に居たのは、居心地が良かったからだとしか説明が付かない。 話す内容にしても、世間や大学の話、友人達との他愛ない会話で面白く感じた挿話といった事が主で、特別な物は本当に何もなかった。 けれど彼とは話せば話すほど心が解れ、温かくなって行くような、そんな安らぎに私は何時も満たされていた。 相手に合わせる必要がない位に、彼の前では自然に振舞えた。 翔も私が年上だろうと関係なく、無邪気なまでに心を寄せて来た。 片方は本を読んで、片方はその邪魔にならないようにヘッドホンでオーディオを聴いて、何時間も会話もないまま過ごすという時間すら、私達には充実した楽しい時だったのだ。 ――どちらがより相手に溺れているのか―― それはきっと自分の方だと、お互い思っていたのではないだろうか。 翔の喰い入るような瞳は、そのまま私が彼に向けていた瞳と同じに彼には映っていた筈だ。 眠っている翔を見下ろすと、彼への愛情が溢れ狂い出しそうで、私は辛くて仕方がなかった。 愛おしさも勝り過ぎると哀しみをすら呼び起こすものだという事を、翔との関係で私は初めて知った。 哀しいは、愛しいとも書く。 両者は表裏一体であり、決して別々の存在ではないのだ。 同時に、至上の幸福を手に入れる者は、それを喪う恐怖も手に入れる事になり、幸福の絶頂に居ながらも、その実は常に無限の絶望と隣り合わせなのだとの逃れ得ない真実をも、私は最終局面で突き付けられる破目になった。 それがいかに世の真理であろうと、残酷さ、不条理さに変わりはなく、遣る瀬ない虚しさと苦痛に駆られずには居られない。 感情と理性を総動員させても消化し納得する事は不可能な、その噛み下し切れない苦さに、私はこれからも一生苛まされ続けるだろう。 ※ ※ ※ 彼との関係は親族や会社の人間にも内密だった。 ただクラブで、神戸出身の学生を見掛けたという程度の事は母に話した事がある。 そうなのと母は言っただけで、気にも留めなかった。 一方彼は、親にも何も言わなかったらしい。 言えば両親はきっと恐縮したり、逆に東城の子息と自分の子供が知り合いであると周囲に根拠もなく自慢したりしかねないから、と翔は困った風に苦笑していた。 彼はそうした事が本当に苦手な子だった。 大抵の人間ならば、たった数回会っただけで私の事を自慢気に『知人です』と紹介したりと、随分人々の虚栄には悩まされ、呆れさせられたものだが、大学の同級生にも一言も話さないなど、翔に俗な所は全然なかった。 たまには同級生達と遊んだら良いと促しても、貴方と居る方が落ち着くし楽しいと言って、肯じなかった。 私が地位のある人間だからではなく。 義理からでもなく。 ただ、楽しいから。 心が安らぐから、そうする。 義務や周囲に縛られ、自分の望む通りに動くという事を忘れてしまっていた私に取って、彼のその自然な行動は実に爽やかだったし、何の余計な思いもなく、純粋に心地良いと思えるからこそ側に来てくれるのだという事も、私には喩えようもない幸福だった。 16歳上という意味で私は世間の事はそれなりに知っているし、彼にも教えたつもりだが、しかし人と人の触れ合い、感情の絆、心の繋がりというものの価値は、私は最後まで彼に学び通しだったと思う。 3年の間、私は一体何を得たのかと自問自答した時、網で掬い上げて砂をふるい落とした最後に砂金の一欠けらが残るように、そこに残るのは翔という存在だけだった。 会社の事業は順調だったし、アメリカや欧州での取引も成功していた。 社会的には、私はその3年の間にも様々に大きな事を遣り遂げ、成果を手に入れたと見なされただろう。 しかしそれらは私に取っては重要な事ではなかった。 全てが翔で占められていた。 私も仕事が忙しく、国外にしょっちゅう出ていたし、彼も講座に入ると、実験や論文の提出、就職活動で一挙に時間を取られるようになったから、何週間もすれ違いという事も良くあった。 そんな時は、彼は電子メールで日常を伝えて来た。 『世の中って便利ですね、貴方がアメリカに居ても、日本に居る僕のメッセージが瞬時に届くのですから』 冗談交じりに、でもその距離と一ヶ月という長さに寂しさを覗かせながらそう送って来た時は、帰ったら連絡するからと返信で慰め、その通りに携帯に連絡を入れると、彼は私のマンションにすぐに来て、無事に帰国出来て良かった、お帰りなさいと飛び付いた。 彼のあの思いやり深さはどこから来ていたのだろう…… 生来の優しさという物もあったのだろうが、彼には、人を思いやるという心が豊かだった。 慈愛深い両親に育まれて来た故だったのだろうか。 私が長期間の海外出張に出たりする度に、彼は気を付けてと何度も携帯で言っていた。 それは社交辞令ではなく、心底から私を心配して言ってくれているのだと判るもので、こんな彼を置いておいそれと事故になんぞ遭えない、遭った所で絶対に助かってやるぞと決意したものだ。 「貴方が帰って来るから、僕、実験も大急ぎで終らせて来たんだ」 そう悪戯っぽく笑う翔の唇にすかさず覆い被さった時の、彼の戦慄。 性急にネクタイを緩め、もどかしく彼のシャツのボタンを外しながら、私は一ヶ月振りの抱擁を求めた。 「駄目だよ、孝之さん…時差で疲れているんじゃ…」 「君が治してくれたら良い――君なら出来る」 「どうやって?」 「朝までずっと一緒に居てくれたら」 子供のような私の言い草に、翔はくすくす笑いながら、それでも全身で応じてくれた。 離れていた間の切なさがどんな物だったかを互いに知らせるかのように、私達は縺れ合った。 翔も完全に理性を忘れ、背筋を貫く快楽の味に、乱れた呼吸だけを迸らせていた。 彼の身体の熱さ。 濡れた肌の滑らかさ。 絡み付く肢体の靭やかさ。 手離せる訳がなかった。 これ程までに私だけを求め、私だけに全てを捧げてくれる彼を離せる事など出来ない。 彼の将来を考えて私の方から身を引かねばならないという分別は、この渇仰の前に渋々引っ込むしかなかったが、転機というものは否応なしに訪れるように出来ている。 それは、翔の就職だった。
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