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それから以降は、彼はその話題は一切持ち出す事はなかった。 彼が将来の事に触れたのは、そのただ一回だった。 就職が内定して今後をふと考えた時、そこに私達が何の障害もなく共に過ごせる場所は少ないという事に気付いて、「判らない」と言ったのか。 彼は心にもない、その場しのぎの嘘は吐かない。 あの言葉は彼のありのままの心を示していたのだろう。 しかも、彼の危惧は図らずも的中した。 神戸の実家に久しぶりに足を向け、両親に「東京での仕事も一段落したし、これからは神戸に帰る」と告げた時、母は息子が帰って来る事に笑顔を見せたが、父の表情は険しかった。 何かあるな。 そう思って身構えていたその日の夜、旦那様がお呼びですと使用人の一人が言うので、そら来たと私は腹を固め、父の私室に出向いた。 「何のご用でしょう」 「多くは言わん――松元翔とは手を切れ」 知られていないと高を括ってはいても、心のどこかではやはりかという思いが拭い去れなかった。 父のことだ、私がこうまで東京から離れないのを不審に捉えていただろう。 どこまで調査されたのかは知らないが、翔の在籍大学は勿論のこと、就職内定先から実家の係累は確実に調べ上げられているに違いない。 「何のお話でしょうか」 「京の芸妓だろうが女子大生だろうが女遊びなら大概は目を瞑る、だが男子学生にまで手を出すとはどういう了見だ? どこでそんないかがわしい遊びを覚えた」 「馬鹿馬鹿しい……どこからそんなお話が出て来るのです」 「お前はいっぱしの一人前気取りだがまだまだ半人前だ、私の目の黒いうちは好きなようにはさせん」 憤怒に顔を赤くして長男を睨み据える、東城財閥の総帥。 父の若い頃にそっくりだと私は言われ続けて来た。という事は私も歳を重ねればこういう風貌になるのかなどど呑気なことを考えながら、父が突き付ける写真と報告書に目を通した。 翔が大学に通っているラフな普段着の姿から、私と一緒にレストランで食事をしている所、彼が私のマンションのエントランスに入って行く所。 写真を撮られているなどとは知りもしないから、彼の無心で自然な表情が可愛く、口元が綻ぶのが抑えられない。 報告書はなかなかに詳細が書かれていた。 恐らく父の第一秘書である川匡女史が手を回したのだろう。 私達がクラブで知り合ったこと、それから頻繁に行き来を繰り返していること、誕生日やクリスマスなどの折には必ず贈り物のやりとりをしていること。 一回り以上歳の離れた男と有名私立大の男子学生が、単なる友人関係でこうまで長い付き合いや贈答を繰り返すというのは考え難く、しかも学生の容姿が人並み優れて美しい事などから、二人は深い交流関係にある可能性が高いと、婉曲に締め括られていた。 報告書から顔を上げた時、父はそれに付いて言うことはあるまいなと訊ねて来た。 「何も――相変わらず川匡女史は切れ者ですね」 「川匡はどうでも良い、一体何ということだ、結婚を嫌がって来たのもその性質のせいか、お前なら女に不自由はしなかった筈だぞ」 「ええ、確かに不足はなかった。ですが私は女なら誰でも良いという訳でもない、男だって同様です」 「何を馬鹿な事を、頭を冷やせ、たかが学生だろう? さっさと手を引いて結婚すれば、お前もすぐに忘れる」 父は翔の出自や家庭環境ではなく、明らかに彼が男であるから嫌がっていた。 さすがに息子を異常の何のと罵倒するのは堪えているのだろうが、その表情は自分の血を分けた子供ではない、何かおぞましい物を見ているかのように歪んでいた。 妙な話だが、私は父の怒りを納めるどころか、挑発的な気分になっていた。 小さな頃は随分この怒りが怖かったものだが、今の私は平気だった。寧ろ愉快でさえあった。 「ではお尋ねしますが、彼が性転換でもして、女性の肉体を持てば、私の『正常な』伴侶として認めて下さるのですか?」 「孝之! 気でも違ったか!?」 「どうなのです? 肉体の形が変わった所で彼は彼だ、しかし貴方の仰有っている事を伺っていると、外見さえ女性であったら何ら問題はないように取れます――下らない、貴方は物事の表面しか見えていないんだ、それでよく他人に口を差し挟むことがお出来になれますね」 「いい加減にしろ! 誰に向かってそんな口を利いている!」 昔から父はこうだった。 親の権威を必要以上に振りかざし、私や弟たちを好きなように縛り付けて来た。 何不自由なく育ててもらったことは確かに感謝しているが、私は父の道具ではない。 「私は38です、その手が通用する歳でもないでしょう。私は貴方に比べればまだまだ至らない面も多いでしょうが、それでも自分の意志は持っています――これまで貴方の言う通りに生きて来て差し上げたつもりです、もう充分ではないですか? 今度は私の自由にする権利を頂きます」 唖然と父は私の顔を眺めていた。 私はこれまで父に逆らったことがないからだ。 まるで子飼いの犬に手を噛まれたかのように、呆然としている。 優秀の、秀才のと簡単に褒めそやす他人は、その裏で私がどんな屈辱を味わってきたかなど、想像もすまい。 父は外面こそ良いが、家庭内では母や私たち息子を徹底的に抑圧する暴君だった。長男という、跡取りとして目される立場にあった私に掛けられた抑圧ははかり知れない。 小学生から大学生までの最も多感な時期に、私は罵詈雑言の数々で意志を無残に踏み躙られ、叩き潰されてきた。 何かをしたい、と願っても、それは父にことごとく打ち砕かれた。私は父の道具でしかなかった。 生き方の指針を徹底的に振り回されたこの虚しい思いを、せめて弟たちには味わわせたくはなく、彼らを私が庇って好きにさせる分、私は弟達の分も従順に振舞ってきた。 どうせ始めに狂ったのだから、今更何になる訳でもない。 そう思い、進んで弟達の捨て身になっていた。私は人生を既に投げていた。 弟達も多分それは知っていると思うし、母親似の優しい彼らは兄に対する感謝を忘れていない。 彼らの優しさを父の傲慢で潰したくなかった私は、それで充分だった。 だが父に対する行き場のない怒りは少しずつひずみとして溜められて行っていた。 それが今、まさに一息に出ていた。 周囲だけでなく、私自身の中にもひずみは存在していたのだった。 人生の本質を鋭く突いた翔の表現に、私は今更ながら彼の聡明さを思った。 「私は別に進学校など行きたくもなかった、京大はなおさらです――しかし金を出すのは貴方だから私はそれに従った、そして東城の会社に入って……これは違う、これは自分の意志じゃないと思いつつ、結局35の歳まで生きて来ました、だが彼は誰に何と言われようと手離しません、絶対に」 口に出して見て、私は自分で驚いていた。 こうまで私は父を憎み、それに逆らうことの出来なかった自分を呪い続けていたとは。 今更過去は取り返せない。不平不満をいつまでも引き摺るつもりはない。 けれどその鬱屈はどこかで私の心に居座り続けていたのだろう。 父は本当にお前は孝之かといった顔で、芯を失った声で言った。 「まさか……孝之、お前はそこまであれが嫌だったのか」 「そうです、貴方が関西に行かせたがっていることは知っていて、それでも成績さえ良ければもしかしたらと思い、嫌々進学した灘でもずっと首席を維持した――だが全ては無駄な努力でしたね、『東大なんぞ官僚の養成学校だ、そんなところには行かせん』との一言で、決まってしまいましたから」 私は笑った。何故私はそんな小さな事に拘り続けて来たのだろうと、自分でおかしかったのだ。 たったそれだけで人生を投げる気になっていたなんて。 しかしこれらは直接の原因ではない事も、私は承知していた。 その元にあったのは父への反発で、将来云々は単にそれの具体例のひとつに過ぎないと。 いや、父への反発すら直接ではない。 結局は己の人格を真っ向から抑圧する存在に対して立ち向かえない、自分自身の弱さへの詛い。 それが私のひずみの根底だった。 ――今までの生涯で、これ程に心が軽くなった瞬間はあるまい。 父への感情と己自身の精神に整理が付けられた事に、笑い出したくて仕方がない程に私は浮き立っていた。 泣きたい位の翔への愛情と共に。 私はその瞬間、生まれ変わっていたのだ。 翔…… 護っているつもりだった。 包んでいるつもりだった。 しかし私こそが彼に護られ、包まれていたのだ。 何も求めず、ただひたすらに私を慕い、優しい微笑を向けてくれる彼に、私はずっと支えられ続けていた。 私に今こうして己の真情と向き合い、自分を立て直す力を与えたのは、他ならない彼だった。 何という愚かしさだろう。 自らの非力に、彼を護ると自惚れていた自分が恥ずかしかった。 彼の方が余程に侃い人間なのに。 無性に彼に会いたかった。 彼の顔を見たかった。 「もうお話しする事はありません――ただ、彼とは別れません…彼が私を見切らない限り」 「孝之!」 「失礼します」 父が狼狽えて引き止めるのを無視して、私は自分の部屋に帰り、即座に翔の携帯番号を押した。 ※ ※ ※ 翔も引越しの準備をぼつぼつ進めており、今日は神戸の実家に居るのは聞いていた。 親子水入らずで過ごしているだろうに、そこを呼び出すのは気が咎めたが、彼にどうしても会いたかった。 夜の8時を回っていたが、すぐに彼は出た。 まるで待っていてくれたかのように。 『孝之さん』 「翔…何してる?」 『今? 晩御飯がおわって風呂から出て、自分の部屋で寝転がってたよ』 無邪気な彼の返答に胸が詰まる。 どうしてこうまで彼はいとけないのだろう。 「出来れば今から逢いたいんだが…時間、取れるか?」 『今から?』 翔は驚きを隠さない。 これまで私がこんなに唐突に彼を呼び出したりする事はなかったから。 が、すぐに『判った』と承諾を伝えて来た。 『友達の所に行くって言うよ、そしたら大丈夫だから』 「君の家は東灘だったな――今から出るから、駅まで来られるか?」 『うん、歩いて5分も掛からないよ』 「なら大丈夫だな……じゃあ、駅で待っている」 翔は笑い声を残して通話を静かに切った。 私も身仕舞いを整え、家を出ようとすると、丁度玄関の所で川匡女史に出くわした。 「まあこれは、孝之様」 あの調査書を作成しておきながら、女史は何食わぬ顔をして私に挨拶をした。 父の第一秘書として修羅場を経験して来ただけある。 私もにっこり笑い、帰りは朝になるからと言い捨てて、えっという顔をした彼女を無視して駐車場のベンツに乗り込み、敷地内をさっさと抜け出した。 ※ ※ ※ 翔は駅の前で待っていた。 濃い色のジーンズに、彼の好きなアウトドアブランドであるAIGLEのストライプのシャツ。 その下にTシャツを着込み、足元はナイキのハイカットスニーカーで固めていた。 ベンツを認めると、彼はぱっと敏捷に駆け出して、私がドアを開けてやると同時に車内にするりと入って来た。 「珍しいですね、貴方がこんな風にいきなり呼び出すのって」 「嫌だったか?」 「まさか」 ミラーガラスを張った暗い車内でも、彼が笑っているのが判る。 手をそっと握って来るので、私も握り返す。 外から車内が見えないのを良いことに、翔が焦るのも聞かず、唇を押し付けた。 顔を離すと、どうしたのかと訊かれた。 「今日の貴方は……いつもと違う」 それには答えず、私は市内にある自分のマンションに彼を連れて行った。 実家は息が詰まるので、30代に入ってから私は市内にマンションを購入し、そこと実家と半々の生活を送っていた。 最近では帰っておらず、週に3回、使用人が風を通して掃除をする以外は開けられることはなく、至極無機質な空気が漂っていた。 室内に通すなり、ろくに照明も付けず、彼を抱き竦める。 翔は一瞬息を呑んだが、じきに身体の力を抜いて、私の背をゆっくりと撫でた。 何故。 何故、この子は私の一番欲しい物をこんなにすぐに察するのだろう。 彼に労わるように背を撫でられるだけで、心が力を抜いて行く。 もう私は彼以外の誰にも癒されることは出来ない。 「孝之さん……大好きだよ」 耳元で囁かれる声。 「私もだ……翔、君が居ないと、私は」 喉に詰まって、言葉が出ない。 翔は頬を私の肩に擦り付け、呟いた。 「どこにも行かないよ……僕、どこにも行かない……だから、そんなに辛そうにしないで」 愛憐の余り、唇を塞ぐ。 互いの身体を愛撫しながら繰り返される烈しい接吻。 せわしない衣擦れの音が低く響く。 翔はいつも真っ直ぐ私に応えてくれる。 無心に、ただひたすらに彼の心に従って。 側の壁に押し付け、暗闇の中で彼の瞳を覗き込む。 月明かりが漏れる室内で切れ長の瞳が潤んだ光を帯び、私だけを見上げて来る。 「翔……私の事を、本当に好きか?」 「うん」 「これからもずっと、愛してくれるか?」 「当たり前じゃないか」 彼が居てくれさえしたら良い。 心底そう思えた。 彼無しでは私の心は命を喪う。 翔は私の全てだったのだ。 腕を引っ張り、ベッドに押し倒す。 彼の呼吸もすでに迅くなり、身体は私の愛撫を待って熱くなっていた。 私の腕の中で止め処なく乱れて行く青年。 彼の何もかもが愛おしい。 噛み付くように肌に名残を残して行く度に、彼は甘い吐息を漏らす。 そうして翔を抱いた時、私達が本当に一つになれた気がした。 身体中の全てが彼と融合し、離れなくなるような気が。 愛し過ぎたというなら否定はしない。 人を愛する心に歯止めなどが存在するのなら、人間世界はもっと違うものになっていたに違いない。 愛情には常に幾許かの狂気が混じると語られた言葉を、私もまた自らで体現していた。 そのまま彼への愛に狂い、狂気に支配されていた方が倖せだったかも知れない。 狂っていれば、確かにこの世の全ては錯乱した夢でしかなかったのだ。 何故私はいっそあの夜に狂ってしまわなかったのだろう。
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