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父が翔の就職先に手を回すのではと予測していたが、その通り、翔が4月に新入社員として入社した際、取締役としてそこに勤務している自分の甥に、彼を専門外の部署に着任させ、神戸の研究所から離すよう厳命した。 そういうやりとりがあったと従兄弟から連絡を受け、私は友樹の所に急いだ。 友樹は父の弟の長男で、私と同い年だ。 顔も雰囲気も私と若干共通点はあるが、彼の方が面立ちが優しい。 だが叔父に似て外柔内剛な所があり、私は従兄弟連中の中でも彼を一番信頼していた。 向こうも私相手が一番気が合うからと、若い頃から今に至るまで、何かに付けて遊びに私を誘っている。 高名な芸術家の娘と結婚しており、子供も一人居る男だ。 大震災で本社ビルも研究所も大打撃を受けたこの社も、さすがに底力を見せ、見事に元の威を取り戻していた。 その際は私も東城系列の各社で被害に遭った所を立て直すべく奔走したが、友樹も同様に、自社の為に不眠不休で力を尽くしたのだ。 本社の彼の瀟洒な執務室に通されるなり、よう孝之と友樹は手を上げ、ソファの向かい側に手を差し伸べ、座れよと示した。 長い足を遠慮なく組み、肘を背凭れに預けて、唇を愉快そうに緩めた。 「お前、伯父貴を大層逆鱗させたようだな」 「まあな」 「いやそりゃすさまじかったぜ、俺の所に物凄い剣幕で電話して来てさ、何故彼を雇ったと見当違いに当たり散らされた挙句に『孝之を誑かしている若造から引き離して、目を覚まさせなければならない』とかのたまわれた日にゃ、俺は危うく噴き出しそうになっちまったぞ」 友樹の冗談に、彼まで巻き添えにしてしまった事を申し訳なく思いつつも私も少し笑ったが、しかし翔を男娼のように形容された事に胸が痛んだ。 彼は何も悪くない…… 発端を切ったのは私の方なのに。 あんなに純粋で素直な子は居ないのに。 私の沈んだ顔を見て、友樹も冗談口を収め、真剣な顔になった。 「お前――本気か?」 「ああ」 「お前はそれで良いかも知れんが、あの子はまだ若い。お前とずるずる続けさせたままでは、人並みに結婚すら出来ないぞ」 「自分勝手とは俺だって判っている。だがもう無理だ、今更元に戻れはしない……翔にしろ」 「孝之、お前がそう思っているだけじゃないのか? 社会に出たら綺麗な女の子も周りに沢山いることに気付けば、彼はお前との関係に疑問を持ち始めるかも知れないぞ――ましてやあの子はハンサムだ、女たちの方から寄って行くだろう」 それは私も考えていなかった訳ではない。 あれだけ私を好きだと言ってくれても、社会に出たら物の見方も変わるだろうから。 しかしそうなった時は、自分から去る覚悟でいた。 「だったらそれはそれで良い、彼を縛る気はさらさらない」 私の返答に、友樹は苦い微笑を浮かべた。 「男相手の方がのめり込んでしまうと性質が悪いとは聞いていたが……その通りだな、お前がそこまで本気になった所を見たことがない」 「………」 「人事部長に言って彼に関する報告書も見せてもらったが、しっかりした家庭じゃないか。父親は今度取締役に昇進するし、母親にしろ良家の出、本人の成績も容姿も性格も申し分がない。なあ孝之、どうしてこんな良い子を――」 正道から外させるような真似をした、と友樹は言外に私を詰った。 反論の仕様がない。 彼が私のマンションに来るようにさせたのも、初めて抱き合ったのも、私からだ。 その事に忸怩たる思いを持っていなかった訳ではない。私さえ彼に近付かなかったら、彼はごく普通に女性と恋愛をして、普通に生きていただろうと。 翔は私と愛し合う仲になったのを後悔はしていないだろう。 私もそれ自体は後悔などはしていない。 けれど、彼の将来を考えると、私はいつも自責の念に駆られずにはいられない。 出会った時から私を好きだったと、彼は言ってくれた。 ならば私が『鼓』に行きさえしなければ、こうはならなかったのではないかと。 彼を別れさせるべきではないのかと、彼の就職が決まってから、悩むことが多くなっていた。 それでも私たちの絆は深まる一方で、翔と別れるなど、考えただけで心が裂かれるようだったのだ。 無言で考え込んだ私の苦悩を察した友樹は、他人の俺が言っても無理だよなと再び苦笑した。 「新入社員の研修で、一通り重役連と新入社員との面通しがあってな――俺はもう彼のことを知っていたから、あの子かと目を止めていたんだが、あっちも俺の東城の名を聞いて、顔を見た途端に表情が変わったよ、ぱっと頬を赤くして……正直俺はお前が羨ましかったな、ああまで惚れられちゃ男冥利に尽きるだろう」 私だけでなく翔も本気なのはそれで判っていたが、つい愚痴にも似た責めを私に言わずにはいられなかったんだと友樹は語り、お前がそうまで腹を括っている以上、俺も括ろうと告げた。 「もしかして父の言う通りにしたんじゃないだろうな」 「まさか。謹んでお断り申し上げたぜ、彼は優秀で即戦力となるのは間違いない、営業だのに行かせようとしたら最後、俺が研究所の所長に蹴り飛ばされる」 黙って微笑んだ私に、友樹は続けた。 「それにな、いい加減伯父貴の目を覚まさせても良いんじゃないかと思ってな。あの人は東城の名前を振りかざせば誰でも言うことを聞くといつまでも信じているようだが、時代は変わっているんだ。日本国内だけで通用する権威ばかりにしがみ付いて居ては東城の未来はない」 自分と考えていることと同一の思いをこの従兄弟も抱いていると知って、私は驚いた。 まさに私も、いかにも封建的な旧体制のままでは駄目だと判断し、数年前から東城の拠点である東城貿易の外国支社と日本本社を切り離そうと密かに画策していた。 株も分けて独立させ、海外で新しいやり方を導入させるべく、部下もすでに私の意向を受けて動いている。 外国支社が実験台になる訳だが、私自身もそちらに渡り、日本本社の影響が厳然と残っている各支社を自由に動けるようにさせるつもりだった。 これが父への背反行為でもある事は充分承知していたが、しかし父の時代は疾うに終ったのだ。 大学卒業と同時に会社を殆ど任された私は、東城を取り巻く環境は父よりも確実に把握出来ている自信がある。 友樹は秘書に出させた茶を啜ると、溜息を吐いた。 「お前があまりにも我慢強かったから、それでますますあの人は増長したんだぞ。端から見ていて俺は歯痒かったよ、どうしてお前がそうまで何も言わないのかと思ってな、お前は確実に伯父貴よりもでかい人間なのに――灘と京大に行った時の経緯がきっかけで、お前が自分の周囲に何もかも諦めているのは知っていたけどな……あれは俺でさえ、お前がむごいと悔しくならずには居られなかった」 「友樹」 「お前があの人を全部受け止める力があって、緩衝材となっているからまだ東城は保てているんだ。伯父貴が我儘放題の子供みたいに、周りに直接影響を及ぼしていたままだったら、東城はとっくに潰れてた。歯痒くはあったが、お前のその姿を見て、俺は感心も感謝もしていたんだ」 私は微笑しただけだった。 この男はやはり親族の中では私のことを、誰よりも良く見抜いていた。 以前の私だったら言っても耳には入るまいと黙っていたものの、翔との交流で私の在りようが変わったことを悟り、今ようやく口にしたのだろう。 彼が協力者になってくれる事に私は心から感謝した。 「お前には世話を掛けるが、宜しく頼む。あの子を我々の諍いに巻き込みたくはないんだ」 「ああ、出来る限りの事はしよう」 友樹は力強い口調で頷きながら答えると、下まで送ってやるよと気軽に立ち上がり、エレベーターに乗り込む。 音もなく20階から降下する箱の中で、彼は静かに言った。 「孝之」 「何だ?」 「将来という言い方を俺はしたが……お前のことだから判っているだろうけれど、見えもしない先ばかりを気にして、目の前の現在をフイにしちまったら何にもならないよな――あまりに先の事に無頓着なのも良くないが、でもお前たちがそうやって惚れ合っているなら、まずは彼を大事にしてやれよな。俺はあんな綺麗な瞳をした子は見たことがない」 「ああ」 穏やかに相槌を打つ私を横目で見て、友樹は口元ににやりと笑みを刻んだ。 「お前もようやく本気になったんだなあ。お前があのまま厭世的なジジイになって行くんじゃないかと、俺は内心冷や冷やしていたんだ」 「俺もそうなると自分でずっと思っていたよ」 私の即答に、従兄弟はやれやれと肩を竦めた。 「東城でも図抜けた色男のお前が、世の中嫌いなジジイかよ――くわばらくわばら」 独身時代はその甘いマスクで女の噂が絶えなかった従兄弟と一緒に、私は声を揃えて笑った。 広い玄関に着くと、丁度リクルートスーツ姿の新入社員達が研修会室から出て来た所に鉢合わせした。 彼らを先導していた人材開発担当の部長が、取締役の姿を見るなり一礼し、友樹もそれに応えたが、私は若者の群れの中に翔の姿を探していた。 彼は居た。 周りにどれだけ人がいようと、私には彼を一目で探し出せる。 彼も私を見ていた。 クラブでの制服姿を見ているから、彼にスーツがどれだけ似合うかは良く判っていた。 けれど、紺色のシングルをぴったりと身に着けネクタイを結んだ彼の立ち姿は、見惚れる程の凛とした美しさがあった。 ワンダーフォーゲルで鍛え上げた身体はのびやかで、一見細身に見えるようでその肩はきっちりと形を持ち、腰も細いのを私は知っている。 翔は濡れたような瞳で私の瞳を見詰めていた。 男としての私の本能を掻き立てられずには居られない瞳。 狂おしく私を恋する瞳。 いつの間に彼は、私をこんな瞳で見ることを知ったのだろう。 出会った時には視線を逸らし、俯きがちな学生だったというのに。 友樹が綺麗だといった彼の瞳は、私を見る時だけ、喩えようもない程に艶かしい光を放つ…… 判っていた。 彼の言いたいことは。 翔の瞳は万の言葉よりも雄弁に私に語り掛ける。 私が好きだと。 会いたくて堪らなかったと。 私もその瞳の希求に答えた。 今晩、逢おう。 連絡する。 携帯を取り出して見せただけで彼はその意を正確に察し、眼差しで頷いて、同期たちと一緒に別の会議室に去った。 ※ ※ ※ 慌しくベルを鳴らす音。 ドアを開くと同時に、ぶつかるように抱き付いて来る身体。 鍵を閉めるのもチェーンを掛ける間ももどかしく、私は唇を重ねながら片手でようやく両者をセットし、翔を抱き締めた。 一言の言葉もなく、相手の名を呼ぶことすらなく、接吻を続ける。 明かりを付けていない玄関と廊下の向こうで、リビングの淡い光がドアのガラスを通じて私たちを照らしていた。 良いのかと訊ねることもしない。 彼のネクタイもスーツも剥ぎ取り、肌を露にする。 翔も私のベルトを外してシャツも脱がせ、同様の姿にさせた。 互いの項を貪り、舌を絡めながら、私達は相手の一番敏感な所を愛撫し合った。 「ああ、孝之さんっ……!」 昂ぶりの極まった時に響いたそれが、始めて聞いた彼の声だった。 私も達すると、猛り狂っていた感情が少しは落ち着きを取り戻し、性急な熱に浮かされた自分達に二人で笑った。 スーツは後で拾えば良いとばかりに、翔を抱き上げて寝室に連れて行く。 どのみち今日は金曜日。時間は気にせずとも良かった。 ベッドの上に下ろした彼は、横に身体を並べる私に腕を回して来た。 「貴方があそこに居て、びっくりした。まさか会えるなんて思っても見なかったんだ」 「近くまで偶々来たものでね、従兄弟の友樹と会っていたんだよ」 「東城取締役だよね、従兄弟なんだ……? 苗字も一緒だし、親族だろうとは思っていたけど……見たとたん何だか、すごく嬉しかった――貴方に似ているから、親近感が湧いたっていうか」 「あいつとか? それは名誉だな、あいつは若い頃は女受けが良かったからな」 ふふっと含み笑いが腕の中から聞こえる。 「同期の女の子たちがさ、『東城取締役ってカッコいい!』って騒いでいたんだけど、貴方が一緒に並んでいる所を見た後では、『どちらが自分の好みか』って真剣に議論し合ってて、僕おかしかったよ」 私も笑いながら訊ねた。 「それじゃ、君はどちらが好みだ?」 翔は答えない。 私の肩に預けていた頭を持ち上げ、身体ごと胸の上に乗ると、私の瞼や鼻筋に唇を押し当てる。 接吻を求められ、それに応じると、彼の掌が私の髪を撫でた。 私も翔の髪に指を走らせる。 来る前にシャワーを浴びて来たのだろう、指の間から零れる髪から仄かな芳香が漂う。 判っているくせにと。 彼はその仕草で私に答えていた。 だが私は言葉で形にして欲しくて、再度返事を促した。 しかし翔は面白がって、ますます答えようとしない。 こうなると私にも考えがある。 彼の若い身体は再び熱くなり始めていたが、それを知っていながら私はわざと無視して、後ろを向いてご覧と言った。 「……?」 翔は訳も判らず、掛布を押しやって素直に身体を入れ替え、横たわった私に逆向きに跨る姿勢になった。 両手で細い腰を捕らえてから、彼のもう一つの敏感な所を舐め始める。 初めてのこの愛撫に、翔は悲鳴を上げて逃げようとした。 「いやっ、何っ!? 孝之さんっ、いやだっ……!」 「答えを言うまでは駄目だ」 「あ……いやだ……」 舌先で焦らすように責めると、彼の喘ぎがしっとりと色付き、これまでとは違った嬌声を聞かせてくれた。 その声を耳にするだけで、私も彼と同様の快楽を味わえる。 肌からは汗が滝のように伝い落ち、私の掌をも濡らして行く。 両手を私の身体に突いて上体を支え、翔は背を仰け反らせながら啜り泣いていた。 「答える気になったか?」 「………っ!」 必死で首を振っている気配がする。 だがそれは当初のように悪戯心ではなく、今の甘い拷問をもっと味わいたいが故の拒否に見えた。 「ああ…もう…だめ…」 力ない呟きと共に、彼の四肢が痙攣する。 苛め抜かれた身体は果てると同時に崩れ落ち、私が支える腕の中で意識を失った。 ※ ※ ※ 瞳を閉じたままの彼をシャワールームに連れて行き、自分も身体を洗った後で眠りに付くと、起きた時には日も高く上がっていた。 翔は安心し切ったように、まだ横でぐっすりと眠っている。 すっきりと通った鼻筋と濃い睫、整った眉。 彼の寝顔は目を開いた時と異なる魅力を湛えていて、美しい。 瞼の上に接吻を落とし、頬も辿る。 結局昨夜は直接には抱き合わなかったお陰で、私は彼の寝顔を見た途端、感情のやり場に困っていた。 新人研修で疲れていたと判るこの寝顔をそっとさせて置いてやりたいので、余計にどうにもならない。 冷たいシャワーでも浴びるかと起き上がろうとすると、翔の手が夢現ながら私を離そうとせず、ますます窮地に追い遣られてしまった。 40も近くなってこの若者じみた感情はどうした事だと、自分で苦笑してしまう。 手を解いてベッドから離れた途端、翔が「孝之さん?」と眠そうな声で呼んだ。 瞳を擦り、物憂気に伸びをする様子は、まるで猫が背筋を伸ばしているような優雅さだ。 「あれ?」 完全に目を覚ました翔は、私が立ち上がっているのが不思議で仕方がないらしく、どうして横に寝ていないのかと言わんばかりだった。 「まだ寝ていたら良い、私は起きるから」 そう言ってからローブを羽織り、玄関に撒き散らしっぱなしの私達のスーツを拾いに行った。 彼の両親が就職祝いに買ってやったのだろう、スーツは仕立ての良い物で、外国のブランドタグが付いていた。 すでに私はネクタイを彼に贈っていたが、社会人となったからには背広は必需品だ。あればある程良い。 馴染みの店に頼んで、彼用のスーツを作らせようかと思いつつ寝室に戻ると、翔はベッドの上に起き上がっていて、怒っているのかと不安そうに聞いて来た。 「怒る?どうしてまた」 考えても居なかった質問に、ソファにスーツを掛けながら私は目を見開いた。 翔は唇を曖昧に綻ばせ、僕が貴方に答えを言わなかったからと呟く。 ああ、昨日のあの事か。 思い出し、そして彼を静かに寝かせて置こうとしたのが、逆にそういう態度に取られたのかと納得し、違うよと笑った。 「新人研修は大変なんだろう? それに私が拍車を掛けてしまったから、君は良く寝ていて……起こしたくなかっただけだよ」 ほっとしたように翔は笑みを取り戻し、そして赤くなった。 昨晩の悦楽を思い出したのか、戸惑ったように視線をシーツの上に彷徨わせる。 図らずも私の願いが通じそうな状況になった事に内心で微笑しつつ、接吻を与えた。 痛い程に唇は吸い付き、ローブが邪魔だと手の動きがしきりに訴える。 一途な求めに応えて、彼をゆっくりと押し倒して、身体を開かせる。 ローブを脱ぎ捨てた私はそのまま翔と抱擁に雪崩れ込み、二人で昏い波の中に溺れて行った。 荒れ狂う嵐の中の小休止にも似た、そうした安息の日々は夏頃まではどうにか保てていたが、父の憎悪と確執から生じたひずみは私と彼の周りを取り囲み、徐々にその安息を奪いつつあった。
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