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彼に決別を告げられてから10月に入るまでの2か月は、私には苦痛を忘れるための2か月だった。睡眠時間を削って仕事に没頭し、外国支社との極秘の折衝を続けていた甲斐あって、ゼロアワーは年内に迎えられそうな気配だった。 会社の窓から見える外の景色も黄金色に変わり始め、美しい木の葉が舞っていた。 神戸という街は四季によって様々な魅力を見せる都市だ。 風景と自然の美しさだけが荒んだ私の心を和ませ、苦痛をほんの一時でも忘れさせてくれた。 父は私が仕事の鬼になっているのを見て、事態が自分の思う通りに収束したことをほくそえんでいる様子だったが、一方友樹は私たちが別れたと聞いてびっくりし、心配していた。 「一応今でもメールやFAXはチェックさせているが、あれから一通も来てないし、社内でも不審な噂は立ってない。あの子はきちんと勤務を続けている」 友樹の説明に、私はそれは良かったと力なく微笑んだ。 彼の父親の会社も密かに探らせたが、順調に昇進を遂げたとのことで、近所でも妙な噂は囁かれていないようだった。 私達が完全に別れたと知って、父もそこで満足したのだろう。 「信じられないな。あの子がそんなことお前に言うとは考えがたい、誰かに何か吹き込まれたんじゃないのか?」 「人に吹き込まれた事を、おいそれと鵜呑みにするような自主性のない子じゃないよ、彼は――自分で判断する力を充分持っている、もし吹き込まれたのだとしても、あの言葉は彼自身で思索を重ねた上での、彼自身の意思だ」 「そうだろうか?」 友樹はなおも首を傾げていたが、こちらがその話題に乗り気でないのを見て打ち切り、私自身に振った。 「お前最近やつれてないか」 「ベルトがワンサイズ落ちた」 「やっぱりな。お前は顔から痩せて行く体質だから、すぐに判る」 「食欲もあんまりないせいだろう、酒も飲んでいないし、仕事も忙しいし。栄養価の高い物を食ってはいるんだがな」 「気を付けろよ、過労死なんかされたら俺がつまらなくなる」 「それが人のことを心配している科白か」 私も切り返したが、友樹は軽い口調の裏側で、本気で心配してくれていた。 それは察していたが、どうにもならなかったのだ。 実家にも帰らず、市内のマンションと会社の往復を続けていた私は、会長として時折会社に来る父はともかく、家族とも顔をまったく合わせていなかった。 父には会いたくもなく、呼ばれても必要な時以外は断った。 またしても私は圧力に負けた形になったのだ。 翔との一件で敗れた以上、私には外国支社独立の成功しか、父に対抗する道は残されていなかった。 変わった所は何ら見られないということは、彼にとってはこの別れは左程のダメージでもなかったらしい。 のめるような瞳も、結局は世間知らずの娘のような熱しやすく冷めやすい物だったのだと思うと、彼の若い回復力が羨ましくも寂しくもあった。 父の御満悦ぶりは増長していて、私に見合いをあれこれ押し付けて来る始末だったが、その無神経は今に始まったことではない。私も負けず劣らずの無神経な態度で拒絶し続けた。 だが、あれだけ徹底的な父が私たちが別れたとあっさり信じたのも、翔にあれ以上手を出さなかったのも、不思議と言えば不思議だと仕事の合間にふっと考え付いたのは、10月の半ばだった。 父は木を倒したらそれで満足ではなく、灰にして埋めるまで容赦しないという類の人間なのに。 一旦疑問に思い始めると、とことん不審な点が出て来た。 最初で最後のメールの工作と文面の拙さ。 追い討ちを掛けない――どこかで一旦堰き止められているような、不気味な無行動。 父の行動を制約出来るような人間は、東城には二人しかいない。 私か、川匡女史だ。 とすれば、女史が一枚噛んでいるのか? その底に何かの意図が潜んでいるとすれば、早目に手を打たねばならない。 彼女の辣腕振りと容赦無さは知っている。 時間が惜しかったので、本人に聞くのが手っ取り早いと私は心を決めた。 もう翔の事は諦めていたが、何であれ全ての事情は根元から把握して置く必要がある。 私は本社の社長室に彼女を呼び出して、率直に訊ねた。 ※ ※ ※ 「松元翔、に付いてですか?」 長い髪を筋の乱れ一つなく結い上げた女性は、いつもきりりと上げている眉を一層上げて、私を真正面から見た。 向かい側のソファに座っている足はすっきりと細く、40代も後半に入った女性とは思えない。 海外からの取引先も女史の美貌を目にする度にこれはと顔を綻ばせるが、私も20数年間付き合って来て、彼女の依然衰えない容貌は脅威にすら映る。 「何のことでしょうか」 「互いに時間の無駄は避けたい人間だ、訊くことに答えてもらえればそれで良い」 目を細めて彼女は私の顔を見遣り、朱を塗った唇を微かに歪める。 「お父上にそっくりですわね、貴方は――その気性の強さも、激しさも」 「関係ない話はするなと言っただろう。まず君は、松元翔が勤めている会社に誹謗メールを送った覚えはあるか」 「有るとも申し上げられますし、ないとお答え出来なくもないのですが」 「曖昧な物言いは止めてくれたまえ、三回も注意をしなければならない程に物わかりの悪い君ではないはずだが」 打ち返すように決め付けると、女史は口元をまた歪め、判りましたと承服した。 「あの文面の草稿を作成したのは確かに私でございます、ですが送っても無駄なことは始めから承知しておりました。貴方様と友樹様が協力体制にある以上、完璧に防御されているはずでしたし、実際その通りでしたわね。会長のきつい仰せでしたので、やむなくざっとタイプした文章をお見せした上で、無駄だとの旨も申し上げましたけれども、会長はご自身の判断で私の知らない間にあのメールを送信なさったのです。あの方にはネットの知識はおありになりませんから、結果小学生並の工作となりましたわ」 女史の容赦ない言葉に、私も冷めた笑いで答えた。 「その小学生並の工作をプロレベルに高めるのが君の得意技という訳だな――まあそれは良い、もう一つ聞きたいのは、翔と私が別れたとああもあっさり父に認めさせ、それ以上彼を追い詰めないようにしたのは、君の意向ではないかということだ」 「仰有る通りでございます」 「何故だ? 君が父の命令に逆らうとは、私にはにわかには信じ難いが――それとも油断させておいて、今度こそプロ並の手並みを披露してくれるとでも?」 凄艶な唇が私の皮肉に微笑んだ。 この女の色香は私には理解不可能だし、男として抱きたいとも思えなかった。 友樹は陰険と切り捨てたが、そういう印象を齎す事は否定出来ない女性だったのである。 「私はあの青年を助けたかったのです。もっと正確に言うならば、普通の世界に生きる善良な彼を、私どもの世界の物差しで破滅させたくはなかったのです」 「ほう、君にしては慈悲深いことだな」 「私とて人間です、心を持たないわけではございません。あの青年は貴方方のように業を背負っている方たちとは違います、彼の家族にしても。会長と貴方の争いは尋常の人々とは比べものにならない程に苛烈なもの、貴方方はそれを耐え抜ける強さがございますけれども、彼がそれに直接巻き込まれていたら、間違いなく破綻していたでしょう」 淡々と語る女史の、こちらをたじろぎもせず見詰める瞳には、底の読み取れない感情が淀んでいるように私には見えた。 無言で聞いている私に、彼女は静かな声で続ける。 「ですから、会長ご自身が彼にお会いになるというのを押し止め、私が会いました。貴方が大変な状況にあること、その中で彼とその家族を護ろうと力を尽くしていらっしゃること、けれど今のままでは貴方の負担が大きすぎて、会長の憎悪が勝利を収めかねないことも、すべて説明いたしました。そうなると彼の家族も社会的地位を失うし、貴方もますます厳しい立場に追い込まれると――彼は、貴方を少しでも楽にして負担を減らすには、自分が第一に身を引くべきと理解しました」 「それは、9月前のことか」 「はい」 翔―― 私は何も判っていなかった。 投げ出すように『もういい』と語った声。 急いで玄関に向かい、別れ際にも決して振り返らなかった背。 彼はどれだけ心の中で苦しんでその言葉を吐き、私の部屋を出て行ったのだろう。 物も言えずに額を覆った私に、女史は相変わらず平坦な声で言った。 「会長を納得させるには、あの手段しかございませんでした――貴方方が完全にお別れになっても、会長は彼と家族を社会的に孤立させるおつもりでしたが、私が全てお止めしました、貴方様がその計画を阻止出来ないはずがないと申し上げて」 「君なりの同情心が継続していたのか」 「ご想像にお任せ致します」 マスカラを塗った濃い睫の向こうで、黒い瞳が火花を散らす。 その瞳の光を見て、私は彼女の行動の真の理由が判った。 東城の一族で唯一、私だけが父のパートナーとしての彼女の存在を認めているから。 確かに翔自身への好意もあるだろうが、父の為だけに冷たい眼差しに二十数年間耐えて来た彼女は、長年の恩義とも言える私の承認に黙って報いたのだと。 私とて人間ですと述べた女史の言葉は、偽らざる心情でもあっただろう。 己を捨てて私を愛する彼に、あるいは彼女は父を愛している自分を重ねたのかも知れない。 良く判ったと答えると、礼を言わせる暇もなく彼女はすらりと席を立ち、失礼しますと言い残して出て行った。 他人の蔑視を撥ね付けてそれでも父の側を離れないその姿もやはり、厳しいまでの見事な愛情の姿の一つと言っても間違いではなかった。
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