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女史と話した日の夜中、会社帰りの翔を私は捕まえ、強引に車に乗せた。 人目のある公道では彼も派手に抵抗する訳にも行かず、大人しく車内に収まった。 何が普段通りだと、友樹の科白に私は悪態を吐いた。頬の線が削げて、全体に覇気がない。以前の彼とは全然違う。 それもこれも私のせいであることは、疑いを入れなかった。 マンションの地下駐車場からフロアに上がるエレベーターの中でも、彼は無言だった。 馴染み深い私の部屋に案内しても、秋用の薄いコートも脱がず、立ち尽した状態で動こうとしない。 先に私が背広を脱いで、ネクタイ姿でソファに座り、彼に「おいで」と促した。 だが翔は私を見詰めたまま、微動だにしなかった。 その瞳は苦しんでいた。自分で自分を必死で抑え付けているようだった。 もう一度、彼の方に手を差し伸べながら、穏やかに私は繰り返した。 「おいで……川匡から全て話は聞いた」 「………っ!」 二ヶ月前に泣けなかった分が、切れ長の瞳に一気に溢れ上がった。 コートごと私の懐に飛び込んで来て、翔は泣きじゃくった。 「ごめんなさい、ごめんなさい……! 僕のせいで貴方に大変な思いさせて、その上にあんなことまで言って――!」 「それは私の方だ、君のことを何も察してやれなかった……許してくれ、翔」 「違うよ、そんなの。僕が側にいたら貴方が苦しくなるって、あの川匡って女の人に言われて……何も力になれないから、せめて足手纏いにならないようにって、そう思ったんだ」 『足手纏いになるのは嫌だ』 零れ出ていた本音。 優しい彼が心にもない数々の言葉を言うために味わった胸の痛みは、私の中にも響いていた。 「良いんだよ翔、私が悪いんだ。力がないばかりに、君やご家族までも巻き添えにしてしまった。本当に済まない。君には辛い思いをさせたけれど、もう心配は要らないよ、後はこのまま一気に振り切るだけになったんだ」 振り切るとは、ゼロアワーのことだ。 この2ヶ月でほぼ手筈を整えられた今、年末にそれを決行すれば、もう完全だ。 今度こそ私は全てを乗り越えて見せる。 ただし、彼が側に居てこその話だ。 濡れた頬を掌で拭うと、おどろくほどに肉が落ちている。 瞳は大きくなり、顔色も悪かった。 そっと肩を両手で撫でると、感触が全然違っていた。 私を涙の伝い落ちる瞳で見上げながら、翔が呟く。 「孝之さん……痩せたね……」 「君こそだ、こんなに細くなってどうする、倒れてしまうじゃないか」 「何も食べられなくて……貴方にこのまま逢えなかったら、悲し過ぎて死んでいたかも知れない」 懐かしい唇に接吻を与える。 彼の方から舌が差し入れられ、必死で縋り付いて来た。 久しぶりのそれは、私たちを初めて抱き合った時のような昂ぶりに追い遣った。 項を舐めると、甘えるように彼が鼻を鳴らし、腕が巻き付く。 もう今度こそ離さないと私は心の中で誓い、彼を寝室に連れて行った。 ※ ※ ※ 「前から、ずっと思っていたんだ。自分が、あまりにも倖せ過ぎるって。倖せを貪り過ぎると、いつかはどこかでバランスが取られて、辛いことも経験しなきゃならないんじゃないかって……だから貴方から離れなきゃならないって知った時、これは僕への戒めなんだって感じたんだ、思い上がるなっていう」 翔がぽつぽつと語る川匡との経緯。 彼なりに一生懸命その事態を受け止めようとし、自分で理由を付けたいじらしさ。 翔はバランス論の持ち主だった。 以前にもこれと似たような内容を言ったことがある。 『辛い時とか、悪い時には、絶対良いことがあるんだよ。きっと神様が埋め合わせしてくれているんだ』 まさか、と私が笑うと、翔は説明した。 『だって、僕が仕事が上手く行かなくて落ち込んでいた時、会社の自動販売機でコーヒーがもう一杯当たったんだよ――絶対そうだって』 その真面目な力説に、私は翔の素直さが可愛くて、大笑いした。 そんな事を信じられるような歳ではなくなった私は、彼の若さを実感したものだ。 だが、悪いことの後に良いことがあるというのは、本当かもしれない。 いつまでも続く闇はなく、夜明けは必ず訪れる物だから。 一回り小さくなった彼を精一杯抱き締めた。 もう私達はこの二ヶ月で充分苦しんだ。再び倖せを享受して何が悪いのか? 苦しんだからこそ、図らずも父への欺瞞が完成したのだ。 私たちに対する父の憎悪のピークをやり過ごさせるだけという川匡の遣り方は、ささいな助力ではあったが、的確だった。 そのおかげで、私は確実に天秤を一気に盛り返せる形となった。 友樹にしろ、川匡にしろ、私達は色々な人間の好意で助けられていると痛感する。 だが油断は禁物だ。 彼と逢うにしろ連絡を取るにしろ、最大限の注意を払う必要がある。 「あと二ヶ月で年末だ、それさえ終われば、君といくらでも逢える。待っていてくれるね?」 「うん、二ヶ月なんか何でもないよ。僕は何年でも待てるよ、待ってても良いのなら、僕はずっと貴方を待ってる」 にっこりと翔は笑い、私の掌に唇を当てた。 「会社は最近はどうだ?」 「新人だもんなあ……まだまだ慣れないけれど、でも先輩たちも上司も良くしてくれるし、毎日勉強って所かな」 「無理はするんじゃないぞ」 「大丈夫」 まだ私の手を両手で弄りながら、彼はしげしげとそれを眺める。 「貴方の手って、大きいね。大きくて、優しくて、温かくて……僕、貴方の手が大好きなんだ。この手で頭撫でられるだけで元気が出るんだ、本当だよ」 無邪気な言葉に私は口元が綻んだ。 「こういう事をしてくれるから好きなんじゃないか?」 彼の足の付け根に手を滑り下ろし、愛撫する。 「もう……ひどいな、せっかく本気で言っているのに……あっ」 拒絶しながらも、腰は艶かしく捩れる。 二人だけの戯れに笑い合いながら、目を閉じた彼の息は徐々に熱く、深くなって行く。 胸元を唇で辿りつつ、敏感な場所を焚き付け続けるうちに、翔はあっという間に達した。 ふうと息を吐いて瞳を開いた彼は、私の悪戯っぽい顔を見て満面の笑みを広げ、再び噴き出す。 私たちはそのままベッドの中で、いつまでも笑い転げた。 数ヶ月ぶりの、心からの明るい笑いだった。
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